職員室は、慌ただしい音で溢れていた
パソコンのタイピング音、ストーブの静かな唸り。
そして、隣の席から聞こえる、資料をめくる紙の音。
渡部は手を止めて、その音の主をちらと見た。
——羽多野コメ。
コメはファイルを広げて、何かに印をつけながら小さくうなずいている。
髪をまとめた後れ毛が頬にかかっていて、それを何気なく耳にかける仕草が、なぜか妙に目に残った。
あのとき、選べていたら。
ふと、そんな言葉が頭をよぎる。
**
6年前。
渡部は、あの日、あの教室の空気を、今もはっきり覚えていた。
卒業式。壇上の言葉。拍手。
生徒たちの笑顔の中に、一瞬だけ、こちらを見た彼女の目があった。
——あの時、もし何かを言っていたら、変わっていたんだろうか。
「……教師って、選ばせる仕事だけど」
小さく、つぶやく
「自分のことは、選べなかったな」
**
「渡部先生?」
名前を呼ばれて、肩がわずかに動いた。
「すみません、C組の資料、これで合ってますか?」
コメが、いつものように微笑んでファイルを差し出してくる。
それはただの業務。誰にでもする、同僚としてのやりとり。
でも、こんなに近くにいても、
こんなに自然に名前を呼ばれても、
「……ああ、ありがとう」
たったそれだけしか返せない自分が、情けなかった。
**
彼女には、隣にいる人がいる。
支えてくれる人がいて、未来の話をして、プレゼントを贈り合って、
冬の街を、恋人として歩ける相手がいる。
なのに。
自分は、まだあの春の教室に取り残されたままだ。
**
それでも、と思う。
それでも。
——今度こそ、何かを選べる自分でいたい。
そんな決意が、ゆっくりと、渡部の胸に灯り始めていた。
パソコンのタイピング音、ストーブの静かな唸り。
そして、隣の席から聞こえる、資料をめくる紙の音。
渡部は手を止めて、その音の主をちらと見た。
——羽多野コメ。
コメはファイルを広げて、何かに印をつけながら小さくうなずいている。
髪をまとめた後れ毛が頬にかかっていて、それを何気なく耳にかける仕草が、なぜか妙に目に残った。
あのとき、選べていたら。
ふと、そんな言葉が頭をよぎる。
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6年前。
渡部は、あの日、あの教室の空気を、今もはっきり覚えていた。
卒業式。壇上の言葉。拍手。
生徒たちの笑顔の中に、一瞬だけ、こちらを見た彼女の目があった。
——あの時、もし何かを言っていたら、変わっていたんだろうか。
「……教師って、選ばせる仕事だけど」
小さく、つぶやく
「自分のことは、選べなかったな」
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「渡部先生?」
名前を呼ばれて、肩がわずかに動いた。
「すみません、C組の資料、これで合ってますか?」
コメが、いつものように微笑んでファイルを差し出してくる。
それはただの業務。誰にでもする、同僚としてのやりとり。
でも、こんなに近くにいても、
こんなに自然に名前を呼ばれても、
「……ああ、ありがとう」
たったそれだけしか返せない自分が、情けなかった。
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彼女には、隣にいる人がいる。
支えてくれる人がいて、未来の話をして、プレゼントを贈り合って、
冬の街を、恋人として歩ける相手がいる。
なのに。
自分は、まだあの春の教室に取り残されたままだ。
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それでも、と思う。
それでも。
——今度こそ、何かを選べる自分でいたい。
そんな決意が、ゆっくりと、渡部の胸に灯り始めていた。



