午後の会議が終わったあとの職員室は、妙に静かだった。
コピー機の音。誰かのため息。
その中で、コメはふと隣の席に目をやった。
渡部の机。
黒のファイルがきっちりと重ねられ、ペン立ても無駄がない。
相変わらずの几帳面さに、思わず笑いそうになる。
昔から、そうだった。
チョークも、黒板消しも、真っ直ぐ並べてた。
「先生、A型ですよね?」
なんて聞いたあの日のことを思い出す。
「……君と一緒なら、血液型なんて何型でも疲れるけどな」
ぼそっと返された声まで、思い出せる。
「コメ先生!」
声がして、コメは振り返った。
「あ、はい! どうしました?」
「あのー、文化祭のクラスTシャツの件、プリントもらってますか?」
「……あー、あれね、ありますあります」
笑ってプリントを取り出しながらも、心のどこかがぼやけたままだった。
***
夕方。
体育館脇の喫煙所に、渡部の姿があった。
煙がゆっくりと宙に昇る。
声をかけるつもりはなかった。
でも、足が止まった。
白衣のポケットに手を入れながら、コメは隣に立った。
「今日は喫煙所なんですね」
「屋上、教頭先生にバレたからね。喫煙所教えてもらった。」
その返しに、少しだけ笑いそうになった。
沈黙。
風が吹いて、コメの髪が舞った。
押さえようとした手に、ふと渡部の視線が落ちた気がした。
「……変わった?」
ぽつりと、彼が言った。
「ん?」
「君の目。昔、見えてたもの……今も、見えるのかと思って」
——ベクトルのことだ。
「あぁ……」
コメはゆっくりと、遠くの空を見上げた。
「大人になったら、見えなくなりました」
そう言うと、渡部は何も言わず、ただ黙って煙を吐いた。
「でも、見えないほうが……幸せかもしれないです」
コメの声が、少しだけ震えた。
自分でも気づかないくらいに。
彼は何も返さなかった。
ただ、もう一本、煙草に火をつけた。
並んで立っているのに、どこか遠い。
それでも、かつてよりは、少し近い。
そんな距離だった。



