冬休み前、終業式まであと数日
講堂の中は、どこか浮足立った空気が漂っていた。
コメは生徒たちを見送ると、職員室へと戻った。
ふだんなら、そのまま教室に忘れ物を取りに行くところだけど、今日はなんとなく、足が向かなかった。
年末。
休みに入るとはいえ、職員は何かとやることが多い。
成績処理に、学年会、そして最後の職員会議。
皆それぞれに自分の机に向かっている。
「渡部先生〜、年末年始、どっか行くんですか?」
若い国語科の先生が、ポンと軽い声をかけた。
コメはファイルを整理しながら、耳をそばだてるつもりもないのに、言葉が自然と入ってくる。
「いや、特には。実家に顔出すくらいかな」
「ご実家って、関西でしたっけ?」
「いや、東京の外れ。」
(……実家)
はじめて聞く、渡部の“家族”の話だった。
「えっ、お兄さんとかいそうな雰囲気あるけど、一人っ子ですか?」
「妹が一人。結婚して家を出てる。……まあ、昔から家族仲は良いほうだったよ」
その言葉に、コメはふと、何かを思い出した。
(私、……高校生のとき、何も知らなかったな)
あんなにずっと、彼のことを目で追っていたのに。
心のベクトルが、どこに向いているかばかりを気にしていて、
どんな家族で、どんな日々を送っていたのかなんて、知ろうともしなかった。
──あのとき、ほんの一瞬でも「知りたい」と思えていたら。
今とは、違った未来があったのかな。
「コメ先生」
角谷が声をかけてきた。
「進路指導の報告、明日の分、まとめて出しとくよ。……もう休みに入るし、今日はゆっくりして」
「……ありがとう、角谷先生も」
微笑んで返したけれど、心はどこか、渡部の声に引き寄せられたままだった。
***
帰り道、白い吐息が空に溶けていく。
渡部の、あの低い声。
何度も頭の中で反響していた。
彼の時間は、ずっと進んでいた。
彼の人生も、彼の想いも、彼の現実も。
コメが立ち止まっていたあいだに。
(また、離れるのかな)
また、彼の知らないところで。
また、届かないところで。
せっかく6年越しに再会したのに、またこの一年で終わってしまうなんて。
そんなの、あまりにも切なすぎた。
帰宅後、コートを脱いだまま、部屋の明かりをつける。
カバンから携帯を取り出すと、LINEの通知が一つだけ、届いていた。
【渡部先生:無理しないで、ちゃんと休めよ】
その短い言葉に、思わず笑ってしまった。
胸の奥に、じんわりとあたたかさがにじむ。
——この一年、短すぎるよ。
——せめて、あと少しだけ。
その願いが、小さく胸に灯った。



