理科準備室のドアが、わずかに開いていた。
「……開いてる?」
昼休み。いつものようにプリントを取りに来ただけのはずだった。
ノックもせず、反射的にコメはドアを押し開けた。
器具棚の前に、誰かが立っていた。
「すみません、薬品棚の——」
その人影が、ゆっくりと振り返った。
「……」
目が合った瞬間、体の奥に、音もなく何かが落ちたような気がした。
整えすぎない髪のライン、そしてその眼差し。
まぎれもなく、渡部だった。
「……あっ」
わずかな声が漏れた。
手にしていた金属トレイがぐらりと傾く。
カタン、と音がして、何かが床に転がるかと思った次の瞬間、
彼の手が、トレイにそっと添えられた。
「ありがとうございます……」
そう言うので精一杯だった。
渡部は何も言わないまま、トレイから手を離し、棚に目を戻した。
ふたりの間に、薬品の匂いと静寂が降りる。
「……理科だったんだな。君が持つとは」
唐突に、彼が口を開いた。
声は、思ったよりずっと低く、変わっていない。
コメは少しだけ笑って答える。
「選択肢、少なかったんで」
渡部は小さく、ふっと鼻で笑うような息を吐いた。
「……君らしいな」
その余韻だけが、狭い部屋に残る。
彼はビーカーを棚に戻すと、何も言わずに出口へ向かう。
すれ違いざま、ふと立ち止まり、
ほんの少しだけコメの方へ振り返った。
「……変わらないな。君は」
そして、扉を開けて出ていった。
コメはその場に立ち尽くす。
握ったままのトレイが、かすかに震えていた。
心の奥で、あの頃と同じ場所が、また静かに疼いていた。



