理科準備室に、人の気配はなかった。
角谷は廊下に置き忘れられていた
ファイルを届けに来た。
ドアを開けた瞬間、見慣れない気配が胸の奥をざわつかせた。
椅子の背にかけられたジャケット。机の上には黒いファイル。
「あ、誰か……」
棚の影から現れたのは、渡部だった。
「……すみません。人がいないと思ってたので」
「いえ、こちらこそ。廊下に落ちてたんで、ついでに」
角谷は軽く会釈しながらファイルを差し出した。
「ありがとうございます」
渡部は受け取ると、無駄のない仕草で中を確認しながら、ちらりと角谷を見た。
「渡部先生って、コメ先生と……昔、知り合いだったんですね?」
その言葉に、渡部の動きがわずかに止まる。
「……教え子です」
きっぱりと。けれどどこか遠い声だった。
「そうでしたか。……なんとなく、話し方が自然だったんで」
角谷は笑ってみせた。
冗談混じりに、軽く。けれど、自分の中でそれが本当に冗談かどうかは、はっきりしなかった。
「……昔、ちょっとって、本人が言ってましたけど」
渡部は目を伏せたまま、静かに口を開いた。
「“ちょっと”でも、“昔”でも、教師と生徒だったことに変わりはありません」
静かだけれど、どこか釘を刺すような言い方に聞こえた。
角谷は、それ以上は何も言わず、棚に視線を移した。
「コメ先生って……たまに、昔を思い出してる顔をするんです」
言ってから、しまったと思った。
けれど、渡部はわずかに笑った。
「……今の彼女は、いい先生ですよ」
「そう思います」
角谷はうなずき、ドアに手をかける。
「じゃあ、失礼します」
「……角谷先生」
背後から呼び止められる。
「彼女を、よろしくお願いします」
その声音には、妙な熱も、焦りもなかった。
ただ、少しだけ寂しそうだった。
角谷は、ゆっくりと振り返った。
「もちろんです」
***
(昔“ちょっと”なんて言ってたけど……あれは、たぶん、“特別だった”って意味なんだろうな)
廊下を歩きながら、角谷はひとりごとのように心の中でつぶやく。
(“教師と生徒”だって、ただの立場の話だ)
(……でも、目の奥にある感情までは、嘘つけない)
何かが、ゆっくりと胸の奥で熱を帯びていた。
負けたくないと思った。
でもそれ以上に——
あのふたりの間には、自分の知らない「時間」があるのだと、
今さらながら痛いほどわかった。
角谷は廊下に置き忘れられていた
ファイルを届けに来た。
ドアを開けた瞬間、見慣れない気配が胸の奥をざわつかせた。
椅子の背にかけられたジャケット。机の上には黒いファイル。
「あ、誰か……」
棚の影から現れたのは、渡部だった。
「……すみません。人がいないと思ってたので」
「いえ、こちらこそ。廊下に落ちてたんで、ついでに」
角谷は軽く会釈しながらファイルを差し出した。
「ありがとうございます」
渡部は受け取ると、無駄のない仕草で中を確認しながら、ちらりと角谷を見た。
「渡部先生って、コメ先生と……昔、知り合いだったんですね?」
その言葉に、渡部の動きがわずかに止まる。
「……教え子です」
きっぱりと。けれどどこか遠い声だった。
「そうでしたか。……なんとなく、話し方が自然だったんで」
角谷は笑ってみせた。
冗談混じりに、軽く。けれど、自分の中でそれが本当に冗談かどうかは、はっきりしなかった。
「……昔、ちょっとって、本人が言ってましたけど」
渡部は目を伏せたまま、静かに口を開いた。
「“ちょっと”でも、“昔”でも、教師と生徒だったことに変わりはありません」
静かだけれど、どこか釘を刺すような言い方に聞こえた。
角谷は、それ以上は何も言わず、棚に視線を移した。
「コメ先生って……たまに、昔を思い出してる顔をするんです」
言ってから、しまったと思った。
けれど、渡部はわずかに笑った。
「……今の彼女は、いい先生ですよ」
「そう思います」
角谷はうなずき、ドアに手をかける。
「じゃあ、失礼します」
「……角谷先生」
背後から呼び止められる。
「彼女を、よろしくお願いします」
その声音には、妙な熱も、焦りもなかった。
ただ、少しだけ寂しそうだった。
角谷は、ゆっくりと振り返った。
「もちろんです」
***
(昔“ちょっと”なんて言ってたけど……あれは、たぶん、“特別だった”って意味なんだろうな)
廊下を歩きながら、角谷はひとりごとのように心の中でつぶやく。
(“教師と生徒”だって、ただの立場の話だ)
(……でも、目の奥にある感情までは、嘘つけない)
何かが、ゆっくりと胸の奥で熱を帯びていた。
負けたくないと思った。
でもそれ以上に——
あのふたりの間には、自分の知らない「時間」があるのだと、
今さらながら痛いほどわかった。



