「コメ先生、あしたの補講、お願いします!」
「センセー今日も可愛いー!」
朝の教室は、男子生徒たちの声でにぎやかだった。
コメは笑いながら手を振りつつ、プリントを配ってまわる。
黒髪をひとつに結び、ベージュの無地のワンピースに白衣を重ねた姿は、大人っぽさと可愛らしさの絶妙なバランスで、彼女を“人気の若手教師”たらしめていた。
「調子に乗らない!補講出たかったら宿題やってこいっての!」
ぴしゃりと一言、でもその声にはどこか優しさがにじんでいて、生徒たちは嬉しそうに騒ぐ。
──ほんとは、こんな日常がずっと続けばよかった。
でも、あの日から心のどこかが、さざ波のように揺れつづけている。
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昼休み。屋上。
静かな風が髪をなびかせる中、渡部が手すりにもたれて煙草をくゆらせていた。
そこへ、コメが迷いながらも近づいていく。
何度も、こうして言おうとした。けど、いざ目の前にすると、声が出なくなる。
「……先生」
「ん?」
「私……」
言いかけて、ひと呼吸おく。
風が頬を撫でた。その風に背中を押されるように、コメは口を開いた。
「私、角谷先生と、付き合ってるんです」
タバコの火が、かすかに揺れた。
「……そうか」
それだけだった。
コメは続ける。
「だから来年、きっと私…異動です」
言い終えてから、少しだけ目を伏せた。
言葉にしたことで、現実になってしまったような気がして、胸がきゅっと苦しくなった。
渡部は黙って、ただ空を見上げていた。
その横顔を、コメはそっと見つめた。
この人の心には、私はもういない。
なのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。
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放課後。
理科準備室に戻ると、角谷先生が待っていた。
やさしい目で、笑ってくれる。
「今日も、人気者だったね」
「……やめてください。からかわないで」
そう言いながら、コメは笑った。
その笑顔の奥に、誰にも言えない揺らぎを隠しながら。
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夜。帰り道。
ふと見上げた空は、やけに澄んでいた。
その青さの向こうに、昔の放課後がふいに蘇る。
(あのとき、ちゃんと伝えてたら、なにか変わってたのかな……)
誰にも届かない問いを、心の奥で呟く。



