遠足の翌日、午前中はどこかゆるい空気が流れていた。
生徒たちは疲れが残っているのか、教室も少し静かだった。
職員室も、なんとなく和やかで、行事明け特有の“おつかれ感”がにじむ。
「これ、コメ先生のとこ、人数分で足りました?」
社会科の安西先生が声をかけてきた。
大きめの箱を机の上に置きながら、ちらっと中をのぞく。
「あ、ありがとうございます。バスの分、ぴったりでした」
「渡部先生のクラスのもまとめてコメ先生が持ってってくれたって、助かったって言ってましたよ」
その言葉に、コメの手がぴたりと止まる。
「……えっ、あ、はい。そうですね、たまたま、バスのとき、近くて」
笑顔をつくるのに、少しだけ時間がかかった。
斜め前で、他の先生たちの手が止まったような気がした。
誰も何も言わないけれど、「あれ?」という間が、空気の中にふわっと広がる。
「渡部先生、昨日は機嫌よかったなー。
お弁当、食べてた?」
「食べてた食べてた。あれ、奥さんの手作り?」
「まさかー、あの先生が結婚してたら、うちの学年主任泣くよ?」
笑いが起きたところで、コメはそっと席を立った。
「ちょっと、印刷行ってきます」
そう言って、プリントを手に職員室を出た。
***
印刷室の中。
ガチャ、と機械が音を立てるたび、コメの胸もざわつく。
——誰も、悪気はない。
ただの会話。
ただの、行事の引き継ぎ。
でも、「渡部先生の近くにいた自分」がふと話題にのぼっただけで、コメは自分の心が波立つのを抑えきれなかった。
印刷物をまとめながら、深く息を吐こうとしたとき——
「……コメ」
不意に背後から声がして、コメは驚いて振り返った。
「……角谷先生」
白衣の袖をたくしあげたままの彼が、少し照れくさそうに立っていた。
「ごめん。……おつかれさまって言いたくて」
「……うん。ありがと」
「昨日、さ……おれ、ちょっとだけヤキモチ焼いちゃったかも」
「え?」
「いや、別に何があったわけじゃないってわかってるんだけど、
渡部先生と話してる君の顔が、なんか昔の顔に見えたっていうか……」
「……昔の?」
「うん。……入学式のあと、初めて職員室で会ったときの顔、思い出した」
コメは一瞬、言葉に詰まった。
けれど、そっと微笑んで言った。
「角谷先生、ずるい……
優しいくせに、ちょっとずるい」
「……でも、ほんとはちょっと怖いよ」
そう言った彼の目は、まっすぐだった。
誤魔化すことのできない誠実さが、そこにあった。
「私、角谷先生に心配ばかりかけてますね」
「…角谷先生は、とても大切な存在です」
静かにそう告げて、そっと彼の腕に触れた。
ガチャリ、と印刷機が最後の紙を吐き出す音がして、会話はそれで終わった。
***
印刷室の外。
渡部は、手にプリントの束を持ったまま、静かに立ち去った。
彼が中に入ることは、なかった。
ただ、目の奥に、焼きついた言葉だけが残っていた。
——「昔の顔に見えた」
——「ほんとはちょっと怖いよ」
その言葉が、なぜこんなにも胸に刺さるのか、自分でもよくわからなかった。
でも確かに今、ひとつの矢印が、見えた気がした。



