「ちょっとだけ、話せるか?」
そう言われた翌日。
放課後のチャイムが鳴ったあと、コメは準備室ではなく、屋上へと向かっていた。
夕陽がゆっくりと傾きかけた頃、屋上の扉を開けると、渡部が柵のそばで背中を向けて立っていた。
「……こんばんは」
「もう、そんな時間か」
振り返った彼は、昨日と同じ白シャツに黒のスラックス。でも、少しだけいつもより柔らかい表情をしていた。
「呼び出しておいて悪いけど、そんな大した話じゃない」
「じゃあ、帰ります」
「ちょっと待て。それはそれでさみしい」
ふ、とコメが笑った。
風が少し強くて、髪が頬にかかる。
それを押さえながら、ふたりはしばらく無言で並んで立った。
やがて、渡部が小さな紙袋を差し出した。
「……プリントと一緒に、あずかってた」
中には、見覚えのある生徒のノートと、ちいさな飴の包み。
「“コメ先生に渡して”って」
「……ありがとうございます」
コメは紙袋を受け取りながら、ちらりと横顔を見た。
「……本当に、それだけ?」
「それと──これ」
彼はもうひとつ、小さなメモ用紙を差し出した。
コメが受け取ると、そこには見慣れた数式の途中に、ボールペンで走り書きがされていた。
「lim(x→∞)f(x) =?」
その下に──
「俺の気持ちは、まだ収束してない」
コメは、それを見た瞬間、笑って、少しだけ涙が出た。
「なにこれ、数学で告白する人、初めて見ました」
「ちゃんと授業、活かしてるんだぞ」
「どこがですか」
ふたりの笑い声が、屋上にだけ、小さく響いた。
「……文化祭、なんだかんだ、あっという間でしたね」
ふいに、コメが呟く。
いつものテンションではなく、どこか少しだけ名残惜しそうな声だった。
「君のクラスの展示、評判よかったな。」
「ありがとうございます。でも……あれは生徒たちがすごかったんです」
「うまいな、そういう返し」
「本当ですって」
ふたりは、顔を見合わせて、また笑った。
——1年だけの時間。
でも、その“たった1年”に、本気で心が動くことがある。
今、そういう季節に、ふたりはいる。
「……帰るか」
「はい」
帰り道。
屋上の扉を閉める直前、渡部がぽつりと呟いた。
「また、明日も会える?」
コメは少しだけ立ち止まり、笑って言った。
「先生、学校ですよ。毎日、会います」
(でも、“会いたい”って気持ちは、ちゃんと伝わった)
心の奥で、そう思った。



