放課後の校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
教室の窓から射す西陽が、黒板に薄く影を落としている。
渡部はひとり、数学準備室のデスクでプリントの添削をしていた。
シャープペンの音が静かに響く中、控えめなノックの音。
「……失礼します」
コメだった。
「どうした?」
顔も上げずに尋ねるその声に、どこか予感のようなものが混ざっている。
「明日の数学Ⅱのプリント……質問があって」
「お、まじめだな。どうぞ」
コメはスッと入ってきて、デスクの前に立った。
けれど、手にしていたプリントを机に置いたまま、何も言わなかった。
渡部がようやく顔を上げたとき、コメはそのまっすぐな視線を受け止めた。
「……質問、じゃなかった」
沈黙。
数秒の、でも心の中では永遠みたいに感じる間。
「私、角谷先生に……自分の気持ち、伝えました」
「……そうか」
それだけ。
それでも、コメの胸には、波のように何かが広がっていく。
「優しい人なんです。ちゃんと向き合ってくれて……でも、私は……」
「……でも?」
「でも、先生の名前ばっかり、頭に浮かぶんです」
静寂が、世界を包んだ。
教室の外からは、何かの部活動の掛け声が、かすかに聞こえる。
渡部はペンを置き、椅子の背にもたれた。
「……そうか」
繰り返すように呟いたその声は、まるでどこか遠くの自分に語りかけているようだった。
「……ずるいな、俺は」
「え?」
「言わなかったのは、俺のほうだったのに」
コメは少しだけ笑った。
その目の奥が、すこし赤くにじんでいた。
「聞かせてください。今の先生の気持ち」
渡部は、その言葉に黙ってしばらく目を閉じた。
やがて、ゆっくりと開いて、静かに言った。
「……君が見てた“矢印”って、たしかにあったと思う。あの頃、俺にも」
「……はい」
「でも、教師っていう肩書きに逃げた。君が笑ってるのを見てるだけで、十分だって、思い込んだ。……それが、ずるさだ」
「……ずるくなんて、ないです」
コメは静かに言った。
「私、あの頃ちゃんと伝えてたらって、何度も思った。でも、今、こうして会えてよかったです」
ほんとうに、そう思った。
あのときの放課後では終われなかった想いが、今やっと、言葉になった。
⸻
帰り道。
夕暮れの坂道を歩きながら、スマホにメッセージが届いた。
【渡部先生:明日、少しだけ時間くれるか】
その文面に、どこか照れが混ざっていて、コメはふっと笑った。
(少しだけ、じゃ足りないかも)
胸の奥で、そう思った。



