夜中の1時を過ぎた頃だった。
隣で寝息をたてる息子マナトの背中をトントンとしながらも、私はずっと、眠れずにいた。
高尾のロールスロイス。助手席。
あの午後の眩しさ。
笑って、ありがとうって言った自分の声。
その全部が、心のどこかをざわつかせていた。
のどが渇いたなと思って、そっと布団を出る。
台所の蛍光灯が、ひときわまぶしく感じた。
グラスに水を注ぎ、口に運ぼうとしたとき――
「……起きてたの?」
ふみの声だった。
「わっ……びっくりした。なんで起きてるの?」
「ムギが布団出たら、すぐわかるよ。足音うるさいもん」
「うるさくないし」
私が口をとがらせると、ふみは笑いながらマグカップを取り出した。
「コーヒー飲む?」
「寝れなくなるじゃん」
「もう寝れないくせに。ホットミルクにしよう」
私は小さく頷いて、テーブルについた。
ふみがマグカップを二つ、コンロに並べている。
――なんてことない、夫婦の夜の台所。
だけど、私はたまらなくこの空間が愛しく思えた。
「ねえ、ふみくん」
「ん?」
「……もし、私がいなかったら、どうしてた?」
「は?」
振り返ったふみが、びっくりした顔で笑う。
「何そのホラーみたいな質問」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
私は視線を落として、手元の水を見つめる。
「たとえば……もし、時間が巻き戻って、ふみくんが高校生に戻って、
私と出会わなかったらって、想像したら、なんかこわくなった」
ふみは一瞬、黙った。
カップをふたつ、テーブルに運んできたふみが言った。
「たとえ出会うのが遅れてもさ。出会えたなら、それで良くない?」
「……それって、結果論じゃん」
「うん、そう。だけど──」
ふみは湯気の向こうで、まっすぐな目をしていた。
「おれは、何度だってムギに出会って、好きになるよ。順番がどうでも」
私の胸が、音を立てて跳ねた。
「なにそれ……ずるいな……」
思わずつぶやいた私の目頭が、熱くなる。
「おれさ、ムギと結婚して、マナトに出会えて、今この台所で、くだらない話してるこの瞬間が、もう正解だと思ってる。過去がどうとか、未来がどうとか、あんま関係ないよ」
「……ほんと、ずるいんだから」
私は涙をこぼさないように、ふみに背中を向けた。
けど、ふみが笑いながら言った。
「なあムギ。俺が未来から来たって言ったら、信じる?」
「は?」
「ムギに何回出会っても、ちゃんと惚れるって、もうわかってるからさ」
私は吹き出した。
「はいはい、じゃあ信じてあげます」
「おお、やった」
いつの間にか、私は笑っていた。
そして、やっと少しだけ、眠くなってきた。
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必要なのは「答え」じゃなくて、「いま隣にいる」こと。
ムギは、そう思いながら、ふみのカップに手を重ねた。



