初出社の朝。
 受付でもらった社員証を握りしめながら、遥は胸の鼓動をなんとか落ち着けようとしていた。

 ──今日から、私は編集部の一員。
 まだ信じられないけど、これは「選ばれた」のではなく、自分で選んだ道だ。

 エレベーターを降りてオフィスに入った瞬間、ふいに聞こえた声に、遥は足を止めた。

「……おつかれさまです。アプリ側のチェック、午後イチまでに上げときます」

 聞き覚えのある低めの声。振り返ると、ガラス越しの会議室に、見慣れた後ろ姿があった。

 ──え?

 遥が立ち尽くしていると、その人物がふとこちらを向いて、軽く手を振る。

「やっと来たね、『編集部の星』さん」

「え……なんで悠真がここに!?」

 彼は笑って会議室を出てきて、名札を見せる。

「高橋悠真、システム部所属。ここの漫画事業部に常駐中です」

「なにそれ、どういうこと……?」

「言ってなかったっけ? 俺、もともと漫画系アプリの開発に関わってて。この会社の配信アプリ、俺のチームが一部つくってるんだよね」

「え……初耳なんですけど……」

「だって、転職決まって舞い上がってる遥が可愛くて、邪魔したくなかったんだ」

 さらりと、そう言われて──遥の心臓がどくんと脈打った。

「なっ……そんな、可愛いとか……」

「可愛いよ。ずっと、可愛い」

 そう言った悠真の眼差しは、冗談じゃなかった。

「それに、ちゃんと読んでたし。遥が書いた『レボルの記憶回の考察記事』」

「え……! っていうか、悠真、レボルの漫画、もう追ってなかったんじゃないの?」

「ごめん、嘘ついた。遥と話すきっかけが欲しくて」

 悠真はからからと笑って、続けた。

「8年くらい前だったかな? 遥、『記憶の伏線は第2話から始まっていた』って書いてたよね。俺、あれ読んで震えたよ」

 遥は、言葉が出なかった。

 まさか──こんなに近くで、こんなに長く、自分の文章を覚えてくれていた人がいたなんて。

「実はさ、最初にこの会社と仕事することになったのも、遥の記事がきっかけだった」

「……え?」

「『今、この編集部の漫画、面白い』って思わせてくれたの、遥だったから」

 彼の言葉は、遥の胸にまっすぐ届いた。
 自己肯定感なんてなかったあの頃の自分を、誰かが肯定してくれていた。それが、悠真だった。

「じゃあ……私たちがまた会えたのって……」

「偶然だけど、偶然じゃない。遥が『自分の足でここに来た』から、こうなったんだよ」

「悠真……」

 名前を呼んだその瞬間、悠真が一歩、近づく。
 悠真の熱のある視線が、遥を捉えた。

「これからは、ちゃんと言うようにする」

「なにを?」

「遥が可愛いってこと。ずっと、好きだったってこと」

「……ばか」

 そう言いながらも、遥は笑っていた。
 ずっと、こうして隣にいてほしかった人が、いま隣にいる。

 

 その日、ふたりは帰り道の地下鉄の中で、自然に手をつないでいた。

「悠真、私たちって、今どんな関係なんだろう」

「『また恋をはじめたふたり』って感じ?」

「なにそれ、ドラマのタイトルみたい」

 遥は、目を細めて笑った。それから、こう呟いた。

「悠真。君をひとりにさせない、よ」

 言い終えてから、少しの沈黙が落ちる。
 悠真はやさしく微笑んで、遥の手をぎゅっと握り直した。

「俺も。これからはずっと、一緒にいよう」

 顔が熱くなるのを感じながら、遥は小さく頷いた。