わたしたちのカノン 春に聴こえる夢路の天使~ブラームスの子守歌~

第二曲 眠りたがりのソリスト

 次の日の昼休み。
 あたしは奏が勝手に入れたアプリの使い方がわからず四苦八苦していた。
休み時間だけ電源を入れていいという校則なので、その度に謎の通知に振り回されている。
当の奏は好きな声優さんのコンテンツをひとりで楽しみたいからとどこかへ行ってしまった。
「桐野、ちょっといい?」
 ふいに声をかけられ、あたしは眉間にしわを寄せたまま顔を上げた。
「ふぁっ」
 相変わらず青白い九能くんの顔がすぐ近くにあって、あたしは思わずスマホを取り落としてしまった。

   *

 九能くんに連れて行かれた先は――音楽室。
「弾いて」
 ぶっきらぼうにそう言った九能くんは、昨日と同じように先生の席に座る。
「えっと……」
「ブラームスの子守歌」
 あ、ちゃんと聴いてくれてたんだ。
 ちょっとでもここで眠れたら楽になるのかな?
「あ、でもちょっと待って!」
「何?」
「寝る前に……あの、携帯の番号、交換したい……」
 おずおずと申し出ると、九能くんは久しぶりにちょっと笑ってくれた。

   *

 そんなこんなで、無事に番号を交換したわけだけれど。
 春休みに入り、九能くんはパリへと旅立った。
 
 あたしは春休みをのんびり過ごす……というわけにはいかず、初日から制服を着て学校に着ている。
 合奏部の部長として。
「部活紹介の時間は、それぞれ十分だから」
 けだるげにあたしに一枚の紙をわたすのは、合奏部の顧問である真田(さなだ)先生。高級な猫を思わせるくせ毛が今日もはねている。
 あたしはわたされた申請書に書き込みながら聞く。
「演奏曲の指定はありますか?」
「ない。なんでもいい」
 ああ、そうですか……。
「新入部員がゼロでも一応は部として存続できる人数だし」
「ちょっと! 縁起でもないこと言わないでもらえますか? あたしは、あたしたちが卒業しても合奏部を残したいんです」
「ああ、そうなんだ」
 相変わらずやる気のなさそうな真田先生は『音楽の力で姪っ子の病気を治す』という目的を達成してからも一応は顧問を続けてくれている。それだけでもありがたいと思わなきゃ。
「副部長の名前が抜けとるやないか」
 ひょいっとボールペンを奪われ、顔を上げると合奏部の副部長でありトランペッターの葉月豪(はづきごう)がいた。最近染め直したのか、金髪がいつに増してまばゆい。
 葉月くんはメガネ男子を集めた金管五重奏のひとり。
 合奏部の盛り上げ役ともいう。
「あれ? 葉月くんの仲間は?」
「呼んでへんよ? そっちの仲間は? あ、九能はパリか」
「うん、そうみたい。奏は推しのライブがあるから無理だって」
「ほな、ふたりきりやな」
「…………」
 意味深な言い方をする葉月くんの顔を見られず、部外者顔をした真田先生に視線を移す。
「先生は、パリに行く前の九能くんに会いましたか?」
「会うっていうか、昨日顔は見たけど」
「体調、悪そうじゃなかったですか?」
「ああ……。そういえば寝られないって言ってたね。緊張で」
「緊張?」
「あっちで有名なヴァイオリニストに指導してもらえることになったからって」
「はぁ」
 やっぱり寝不足だったんだ。
 病気とかじゃなくてよかったけど、九能くんが緊張するなんてめずらしい。
「有名なコンクールもばんばん出るやつが緊張ねぇ」
「それだけ憧れてるヴァイオリニストなのかもね」
 葉月くんと真田先生のやりとりを聞いて、あたしはなんだかホッとした。
 九能くんはなんでもできる超人みたいだと思っていたけれど、緊張したり寝られなくなったりするんだな。