わたしたちのカノン 春に聴こえる夢路の天使~ブラームスの子守歌~

春に聴こえる夢路の天使 ~ブラームスの子守歌~

第一曲 知りたがりの空回り

 卒業式が過ぎ、三年生がいなくなった星音(せいおん)学園中等部の教室で。
 あたし、桐野結(きりのゆい)はとてつもなくニヤニヤしていた。
「結ちゃんって、そんっっっっなにブロッコリー好きだったっけ?」
 正面からのぞき込んでくるのは、短めの前髪がかわいいお人形さんのような美山奏(みやまかなで)。あたしの親友であり、大切な仲間でもある。
 何の仲間かっていうと、合奏部の仲間。
 そして、ピアノ三重奏(トリオ)の仲間。
 あたしはピアノで、奏はチェロ。
「え、何? ブロッコリー?」
「いやこっちのセリフ。あたしが『ブロッコリーきらぁい』って言ったら『食べてあげようか?』っていうからあげたら、めちゃくちゃ幸せそうな顔で食べるじゃん」
 そういえばそんなやりとりをした気がする。
 奏のお弁当は、あたしが自分で作ったお弁当よりはるかにおいしい。
 ブロッコリーひとつとってもしっかり味付けされていて無限に食べられそう。
 ……って、あたしの顔がゆるみっぱなしなのは、ブロッコリーが理由じゃなくて。
「実はね」
 あたしは水筒のお茶を飲んでから、制服のポケットに手を入れた。
「じゃじゃーん!」
 自ら効果音をつけて取り出したのは――。
「スマホ?」
 奏の大きな目が丸くなった。
「そう! 部活で帰りが遅くなることが増えたからって、買ってもらえましたー」
 実はずっと欲しかったんだけど、お父さんが亡くなってからひとりでがんばっているお母さんには言えなかったんだよね。中学生のあたしはまだバイトできないし。
「ふぉー、やったじゃん! 番号とかトークアプリとかSNSとか交換しよっ」
「待って待って、まだひとつもアプリ入れてなくてなんにもわからないんだけど」
「マジか! じゃあ番号だけでいいや。そうだ、九能くんも――」
 奏はぐるりと教室を見渡し、首を傾げた。
「いないし!」
「……いないね」
 九能くん――九能(くのう)アキラは、同じクラスの男の子であり、合奏部の仲間であり、ピアノ三重奏の仲間のひとり。
 いくつものコンクールで賞をとっている天才ヴァイオリニストだ。
「まだ誰にも番号教えてないんだよね?」
「うん、お母さん以外はまだ」
「じゃあ、あたしが結ちゃんの『ひとりめ』をもらっちゃっていいんだよね? 九能くんがいちばんじゃなくて?」
「へ? なんで?」
 そりゃあ、九能くんともピアノ三重奏の仲間として連絡とりやすくなるから番号は交換するつもりでいたけど……。
「別にぃ? 春休みはパリに行くって言ってたし」
「あ、そうなんだ。まあでもいちばんじゃなくて全然……」
 妙な会話をしながら、あたしは合奏部の部長として春休みの予定を考え始めていた。

   *

 お弁当を食べ終わってもまだ時間があったから、あたしは音楽室に行ってみた。
 昼休みに教室にいないなら、ここかなって。
 とんとんとノックしてから扉を開けると、そこにはやっぱり九能くんがいた。
 楽器を奏でるわけでもなく、ただ窓から外を眺めている。
「入ってもいいかな?」
 声をかけると、九能くんはゆっくりと振り向いた。
「ああ……桐野か」
「く、九能くん、大丈夫?」
 振り返った九能くんは、とてつもなく青白い顔をしていた。
 動きがどことなくゆっくりなのも、具合が悪いからかもしれない。
「何が?」
「だって、めちゃめちゃ顔色悪いよ? 保健室ついていこうか?」
「別になんでもない。それより、ピアノ弾きにきたんだろ。俺にかまわず、どうぞ」
 本当は九能くんとも電話番号を交換しようと思って探しにきたのだけれど、そんなことは言い出せなくなってしまった。
 しかたなくピアノの前に座り、指をにぎにぎさせる。
(なに弾こうかな)
 ちらりと九能くんを見やると、窓から離れて先生の席に座ったところだった。物憂げな顔で、浅くため息をついている。
(体調悪そうだし、静かめな曲がいいよね)
 それなら、と、あたしは鍵盤に指をすべらせた。

 ――ブラームスの子守歌。
 
 ブラームスが友人の子どもの誕生を祝して作ったといわれる曲。世界中で愛されている優しいメロディーは、日本人にもなじみがある。
 幼い子どもはもちろん、大人も眠りにいざなう子守歌だ。
 ゆりかごを揺らすように、ゆったりとした気持ちで、優しく、やさしく――。
 短い曲だから、すぐに弾き終えてしまう。
(次はどうしようかな……)
 九能くんの体調が心配でちらりと見やると――。
(えっ、寝てる?)
 交差させた腕の上に頭をのせ、九能くんはすやすやと眠っていた。さっきまでのつらそうな表情が消え、赤ちゃんみたいな無垢な顔になっている。
(あたしの子守歌で寝たってこと?)
 そんなことある? と思って動揺したせいか、イスをガタッと鳴らしてしまった。
 九能くんのまぶたがぴくっと動き、思わず息を止める。
(そうだ、もう一回……)
 そろそろと指を鍵盤にのせ、もう一度ブラームスの子守歌を奏で始めた。さっきよりも、もっとなめらかに。優しく、起こさないように。
(体調よくなってほしいな……)
 そう思った瞬間、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響き、ドキッとしたあたしは両手で鍵盤をがしゃんっと鳴らしてしまった。
(ぎゃーっ、あたしのバカ! チャイムのバカ!)
 おそるおそる九能くんを見やると、うーんと伸びをしているところだった。
「ごごごごめんね、起こしちゃったね」
「……いや、授業始まるし」
「教室、戻ろっか」
「うん」
 久能くんはまだ眠そうにぽやぽやしていたけれど、顔色は少しよくなっているように見えた。
 もしかして、寝不足なのかな……?