彩葉という名の春



 

 

──現代──

 

 

春がまた巡ってきた

 

 

柔らかな風が頬を撫で
空には、今年も変わらず桜が舞っていた

 

 

彩葉は静かに蔵へと足を運ぶ

 

 

「……ただいま」

 

 

その言葉を、何度この蔵で呟いただろう

 

 

毎年、春が来るたびにここに来ることが
彩葉の日課になっていた

 

 

重たい蔵の扉をゆっくり開けると
湿った木の匂いがふわりと広がる

 

 

桐の箱は今日も静かにそこに在った

 

 

 

──

 

 

 

そっと膝をつき、箱の蓋を開ける

 

 

中には大切に束ねられた手紙たち

 

 

兄の恋文
恭介の想い
そして戦友が届けてくれた、失われた春の証──

 

 

彩葉は一通の古い封筒を取り出した

 

 

──『愛しい君へ──』

 

 

封を開き、何度も読み返してきたその手紙を
今日もまた、そっと読み上げる

 

 

『今日も、君のことを思い浮かべています。』

 

『この国の行方も、明日がどうなるのかも、何ひとつ確かなものはありません。』

 

『だけど──たった一つ、確かに言えることがあるのです。』

 

『僕がどれほど、君を愛しているか──』

 

『君の笑った顔も、照れた横顔も
 僕は全部、鮮明に覚えています』

 

『どうか、君が無事でいてくれますように。』

 

『僕は──
 君とまた笑い合えるその日を信じています。』

 

『たとえ、この命が尽きようとも』

 

『君が生きる世界に、光が戻りますように──』

 

 

 

彩葉の指が震え
頬を涙が静かに伝っていく

 

 

「……やっぱり、泣いちゃうんだよね……」

 

 

その時、後ろから静かな声が届いた

 

 

「……あらあら、また呼んでるのかい?」

 

 

振り返ると、千代ばぁがゆっくりと蔵に入ってきた

 

 

「千代ばぁ……」

 

 

千代ばぁは微笑み、隣に腰を下ろした

 

 

「お前がここに来るたびに、私も思い出すんだよ」

 

「……何を?」

 

「兄さんのことさ──」

 

 

千代ばぁはゆっくりと語り始めた

 

 

「私もね、兄さんとその人が一緒にいるのを
見たことはないからわからないんだけどねぇ」

 

「……」

 

「でもね──戦後、兄さんの戦友が家まで来てくれたのよ。
たしか…田嶋さんだったかなぁ。
 兄さんの遺品の中から、この手紙たちを届けてくれたんだよ」

 

 「田嶋…さん」



千代ばぁは、そっと桐の箱に並んだ手紙たちを撫でた

 

 

「そう、田嶋さん。
そのとき初めて知ったんだ──
 兄さんがずっと大切にしていた人の存在を」

 

「……彩葉さん、だよね」

 

「そう──お前と同じ名前の子だったんだよ」

 

 

彩葉は唇を噛み、胸がぎゅっと締め付けられる

 

 

「どうして…私と同じ名前…」

 

「うん──
 お前が生まれた時、彩葉のお母さんがね
私にね、この子の名前をつけてくれって」

「それでふと…兄さんを思い出したのよ。
彩葉と兄さんの誕生日が同じだったから、これは
なにか縁があるんじゃないかって」

 「…え?そうなの…?」

「えぇ。だからね、兄さんの"誰にも知られずに終わってしまった想い"をなにか形に残そうと思ってねぇ
"彩葉"と名付けたのよ。この子の中で"兄の想い"が生き続けてくれるといいなぁって思ってね。」




彩葉は唇を噛んだまま、肩を震わせた

 

 

涙が、止まらなかった

 

 

その名がどうして自分に託されたのか──
今、すべてが繋がった

 

 

けれど胸の奥では
もうひとつの”春”──
自分だけが知る、あの奇跡の春が静かに咲き続けていた

 

 

──戦時中、名に導かれるようにして出会った恭介の笑顔──

 

 

誰にも語れない
語るつもりもない

 

 

けれど、それは紛れもなく私の春だった

 

 

彩葉はそっと目を閉じ、胸の奥で呟く

 

 

(──私は、偶然なんかじゃなかったんだ──)

 

 

そして、震える声で
ぽつりと、ただひとことだけ絞り出した

 

 

「……ありがとう……」

 

 

千代ばぁは、何も言わずに静かに彩葉の肩を抱き寄せた

 

 

ふわりと吹いた春風が
また桜の花びらをひとひら、蔵の奥へと舞い込ませていった














【完】