彩葉という名の春



 

 

──春本番──

 

 

庭の梅がすっかり満開になり
日差しも少しずつ柔らかくなってきた

 

 

藤宮家の屋敷にも
穏やかな空気が流れていた

 

 

 

「今日は暖かいですね」

 

「うん、春らしくなってきた」

 

 

縁側に並んで座る彩葉と恭介

 

 

ふたりの距離は、今では自然とすぐ隣になっていた

 

 

何も言わずとも並んでいられる
そんな空気感になってきたはずなのに──

 

 

彩葉の胸の奥は
日に日に苦しくなっていくばかりだった

 

 

 

「……恭介」

 

「はい」

 

「……ずっと、このままでいられたらいいね」

 

「……そうですね」

 

 

恭介の笑顔は優しかった

 

 

でも
そこに微かに滲む”迷い”に、彩葉はもう気づいていた

 

 

あの日以来
ふたりはずっと、“踏み出せないまま”でいた

 

 

抱き寄せられても
手を繋いでも
額が触れ合っても

 

 

それ以上は──まだ越えられていない

 

 

 

──このままじゃ、きっと私は……

 

 

心の中で
ずっと叫んでいた

 

 

「……彩葉?」

 

「あ、えっと……ごめん、なんでもない」

 

「……」

 

 

ふと
静かな沈黙が流れた

 

 

 

──

 

 

 

その日の夕方──

 

 

買い出しの帰り道
ふたりは川沿いの道を歩いていた

 

 

水面に反射する春の光が
やわらかく揺れていた

 

 

「綺麗だね……」

 

「ええ……」

 

 

風が吹き
彩葉の髪がふわりと舞った

 

 

それを恭介がそっと手で押さえ
彩葉の髪を耳にかけて整えた

 

 

「……っ……」

 

 

一瞬、指先が頬に触れた

 

 

甘い痛みのような鼓動が走る

 

 

「……彩葉」

 

「……うん」

 

「……あなたは、今……幸せですか?」

 

 

突然の問いに
胸が詰まった

 

 

──幸せだよ、もちろん──

 

 

でも、口が動かない

 

 

自分の中の
張り詰めた想いが膨らみすぎていた

 

 

「……恭介」

 

「はい」

 

「私ね──」

 

 

声が震えた

 

 

「本当は、ずっと……」

 

 

でも
喉の奥で言葉がつっかえた

 

 

「──ごめん……やっぱり、なんでもない……」

 

「……彩葉」

 

 

恭介の手が
そっと彩葉の肩に触れた

 

 

けれど
それ以上はやっぱり、踏み込まなかった

 

 

ふたりはまた
言葉にできない想いを抱えたまま
静かに歩き続けた

 

 

──

 

 

 

その夜──

 

 

彩葉は布団の中で
ずっと悶々としていた

 

 

頭の中で何度も
夕方のやり取りがぐるぐると回る

 

 

──好きって、どうしてこんなに苦しいんだろう

 

 

──言いたいのに言えない

 

 

──もうずっと、この気持ちを押さえ続けてるのに

 

 

気づけば
目尻にまた一粒の涙が滲んでいた

 

 

静かな夜の中で
自分の鼓動だけがやけにうるさく響いていた