彩葉という名の春



 

 

──ある夜──

 

 

冷たい風が
障子の隙間から細く吹き込んでいた

 

 

その日は珍しく夜になっても恭介が戻らず
彩葉はひとり、静かに炬燵に入って待っていた

 

 

──こんなに帰りが遅いのは、珍しい…

 

 

胸の奥が落ち着かず
何度も時計代わりの柱時計に目をやる

 

 

その時──

 

 

──ガラガラッ!

 

 

玄関が勢いよく開いた音に
彩葉は思わず立ち上がった

 

 

「……恭介!」

 

「……ただいま、彩葉」

 

 

そこに立っていたのは
少しだけ息を乱し、額に汗を浮かべた恭介だった

 

 

「遅かったよ……すごく心配したんだから……!」

 

「……すみません。今日の訓練が長引いてしまって……」

 

「訓練?」

 

「新しい配属命令の調整で少し現場が混乱していたようで……」

 

「……っ」

 

 

一瞬
心臓が強く跳ねた

 

 

命令、という言葉に
彩葉の中の不安がまた静かに疼いた

 

 

 

「……彩葉?」

 

「あ……ごめん……」

 

「大丈夫です。まだ何も決まっていませんから」

 

「……うん」

 

 

ふたりの間に少し沈黙が落ちた

 

 

けれどその時、風が強く吹き込み
障子がガタガタと揺れた瞬間──

 

 

「──っきゃ!」

 

 

思わずバランスを崩しそうになった彩葉を
恭介が素早く支えた

 

 

ぐいっと引き寄せられ
彩葉の体は恭介の胸元へと倒れ込む

 

 

「だ、大丈夫ですか?」

 

「……うん……」

 

 

彼の腕の中
背中に回された腕の温かさが
全身を包み込む

 

 

いつもはすぐに離れるはずの距離──

 

 

でも
今回は恭介も動けずにいた

 

 

「……」

 

 

彩葉は恭介の胸の鼓動を感じていた

 

 

早く
でもしっかりと打ち続ける心音

 

 

自分の鼓動も
それに合わせるように早まっていく

 

 

「……彩葉」

 

「……なに?」

 

「……本当に、あなたを不安にさせたくはありません」

 

「私だって……怖いの」

 

「……」

 

「でも、恭介がいない方がずっと……怖いのに」

 

 

その瞬間
恭介の腕に僅かに力がこもった

 

 

「……私も、あなたを失いたくない」

 

「……」

 

 

目が合う

 

 

ほんのわずかな距離

 

 

もう一歩踏み出せば──

 

 

けれど、恭介はそっと額だけを彩葉の額に重ねた

 

 

「……今は、これが限界です」

 

 

甘くて
苦しくて
切なくて

 

 

彩葉は目を閉じて
そのぬくもりを静かに受け入れた

 

 

──

 

 

その夜
眠りについた彩葉の胸の奥には

 

 

「好き」なのに
まだ言葉にできない苦しさが
静かに疼き続けていた