彩葉という名の春



 

 

──その日の午後──

 

 

空は、朝からどんよりと曇っていた

 

 

昼を過ぎる頃には、冷たい風も強まり
町全体がざわついていた

 

 

「彩葉、今日は風が強いから外には出ない方がいい」

 

「うん、わかった」

 

 

恭介の言葉に頷き
彩葉は家の中で針仕事をしていた

 

 

その時──

 

 

──ドンッ!

 

 

突然、遠くで鈍い爆音が響いた

 

 

「っ……!」

 

 

反射的に彩葉は体を縮めた

 

 

「大丈夫です、少し離れた場所です」

 

「……でも……」

 

「念のため、防空壕に移動しましょう」

 

「……うん」

 

 

ふたりはすぐに支度を整え
屋敷の裏手にある小さな防空壕へ向かった

 

 

 

途中──

 

 

急いで駆け出した彩葉の足元が
強風に煽られて転んでしまった

 

 

──ズサッ!

 

 

「──っ!」

 

「彩葉!」

 

 

恭介がすぐに駆け寄り
彩葉をしっかりと抱き起こした

 

 

「大丈夫か?」

 

「……う、うん……」

 

「足……捻ったかもしれません」

 

「……すぐ、防空壕へ」

 

 

 

──

 

 

 

防空壕の中──

 

 

強張った表情の彩葉を
恭介が静かに抱き寄せて座らせた

 

 

「痛みますか?」

 

「少しだけ……」

 

 

恭介はすぐに包帯を取り出し
静かに彩葉の足首に手を伸ばした

 

 

「失礼します」

 

「……っ……」

 

 

彼の指先がそっと素肌に触れるたび
胸の奥が微かに震えた

 

 

「少し腫れていますが、大事には至っていません。安心してください」

 

「……ありがとうございます……」

 

「むしろ、私がもっと気をつけるべきでした」

 

「そんなことないよ……私が勝手に焦って……」

 

「……」

 

 

ほんの一瞬
ふたりの目が重なる

 

 

静かな闇の中
誰もいない空間に、ふたりの吐息だけが重なっていた

 

 

「……怖くは、ありませんか?」

 

「……今は平気」

 

「なぜです?」

 

「だって──恭介が、そばにいてくれるから」

 

 

恭介は、一瞬だけ視線を伏せたあと
ゆっくりと彩葉の手を取った

 

 

「……彩葉」

 

「……」

 

「私は、あなたを守りたい。どんな時でも」

 

 

静かな声だった

 

 

でも、胸の奥を強く打ち抜くように響いた

 

 

恭介の手が
自然と彩葉の頬に触れた

 

 

すぐそこにある距離

 

 

目の前にある唇

 

 

だけど──

 

 

ほんの僅かに、恭介は指先を震わせて止めた

 

 

「……すみません。少し、抑えが効かなくなるところでした」

 

「……」

 

 

彩葉はそっと笑った

 

 

「……別に、私は……嫌じゃないのに」

 

 

その言葉に
恭介の表情がわずかに崩れそうになった

 

 

けれど──
まだ踏み込まない

 

 

「……ありがとう」

 

 

防空壕の奥に
ふたりの吐息と鼓動だけが静かに響き続けていた

 

 

──ふたりの距離は
確実にもう、戻れないところまで近づいていた──