先生×秘密


新学期がはじまり、まだ数日しか経っていないというのに。
もうすでに、コメは“疲れていた。

教室のざわつき、視線の矢印、言葉の裏に潜む感情の流れ――。
どれも、まっすぐにコメの心をかき乱してくる。

唯一、何も見えなかったのは、あの日屋上で会った教師だけだった。
矢印の“ない”空気。ベクトルの“ない”存在。
あの静けさだけが、いまだに心のどこかに残っていた。

 

 * * * 

 

「委員会、何にする〜?」

昼休み、机を囲んで女子たちが話している。

「文化とか、体育とかは忙しいからやだ〜!保健とかゆるそうでよくない?」
「でも居残りあるんでしょ?だる〜」
「ってか、男子にやらせればよくない?あたし絶対むりー」

ああまた、色が飛び交う。
無関心の青。面倒くさいのグレー。裏で他人を押しつけたい緑の矢印。

「私、文化祭委員やるよ」

自分からそう言った方が、よっぽど楽だった。

 

「コメちゃん、いいの〜? ありがと〜♡」
「やさしー!」
「てか転校生なのにえらすぎ」

矢印の色が、ぱっと変わる。
ピンクの好意、でもそれは表面的。
どこかにまだ残っている、濁った黒が気になる。


「転校してきたばかりだし!私も一緒に
 文化祭委員やるよ!!困ったら私を頼ってね」
 声を掛けてくれたのはしげ。

しげちゃんから向けられるベクトルは“オレンジ”
――好意・友好的・あったかい

「ありがとう!」
……この色、すごく安心する。なんか、自然に笑えたかも


その日の放課後、第一回の委員会顔合わせが行われた。

他クラスの委員たちが集まった教室。ざわつく声。
 「誰が担当なんだろうね〜」
 「まじイケメンの先生がいい〜!」
 「え、でも体育教師とかだったら地獄」

 すると――

 

 ガラリ、とドアが開いて、現れたのは。

 

 「……!」

 

黒のスラックス、無造作な髪。あの日、屋上でタバコを吸っていた、あの人。
ベクトルの“ない”静かな人。

教室が、一瞬でざわついた。

「やば、渡部先生じゃん!」「本物?」「え〜担当なの!?ラッキーすぎ」
コメの耳にも、いろんな色の矢印が飛び込んでくる。

でも、自分の心の音だけが、急に大きくなった。

渡部先生って言うんだ……

 

「じゃ、これからよろしくな」

無駄なことは言わず、さっとプリントを配って、スケジュールを説明する。
飾らない。興味なさそう。だけど、どこか落ち着いている。

解散の雰囲気になり、みんながざわざわと立ち上がった頃。

ふと、コメのすぐ横を通り過ぎながら、彼が、低くつぶやいた。

 

「俺も……この委員会にした」

 

 ――え?

 

思考が止まった。
顔も見ない。足も止めない。だけど、耳元で確かに聞こえた。

 

 (まさか……私がいるから?)
 (……そんなわけ……ないよね)

 

でも、他の先生たちの担当希望が決められる仕組みだって、今なら知ってる。
それでもあえて、自分と同じ委員会を選んだ――としたら?

喉の奥が、少しだけ熱くなった。
教室を出ていく彼の背中を、コメは黙って見送った。

 

また、矢印は見えなかった。
でも、その言葉だけが、胸の中で、色を持ってゆっくりと残っていた。