26歳で放り出された社会で、
まともにもう会社員なんてやれる気はしなかった。

それは、持ち上げられることに慣れすぎていたからじゃない。

事務所での一件から、
組織に振り回される立場にはほとほと嫌気がさしていたからだ。

幸い、実家には金があった。
夢破れた俺に両親は甘く、
資金を借りて地元に小さな進学塾を開くことにした。

べつに子どもなんて好きでも何でもなかったが、
アイドルじゃなくなった俺にできることなんて、
勉強くらいしか思いつかなかっただけだ。

それでも、2年も経つと運営はずいぶん軌道に乗った。
もっとも規模は小さいし、金はカツカツだったけど。
そこからさらに10年。
お兄さんなんて呼ばれる歳はとっくに過ぎ、
最近じゃ“おじさん”の方がしっくりくるようになった。
塾は拡大して、この田園都市線のエリアに徐々に校舎の数を増やしている。

(この後は、上田くんの面談か)

年度始めの4月は面談が多くて、正直うんざりする。
その日は、4年生クラスの上田翔太の保護者面談だった。

いつもはテレワークの父親が送り迎えをしているらしいが、
今日は珍しく母親が来るとのこと。

翔太は、内気で大人しい子だ。
でもガリ勉ってわけでもなく、実際の成績はかなり悪い。
昔の俺がいちばん馬鹿にしそうなタイプだった。

(4年生とはいえ、宿題くらいは習慣にしてほしいもんだけどな)

そう思いながら待っていると、
空き教室の引き戸がガラッと開く。
反射的に立ち上がって挨拶する。

「いつもお世話になっております~!塾長の平沼です!」

現れたのは、ベージュのワンピースを着た女性。
おとなしい男の子の母親にありがちな、やや少女趣味の服装。

けれど目が合った瞬間、彼女の表情が一変する。
目を見開き、信じられないものを見るような顔。

「カズキくんですか?! 平沼、カズキくん!?」

(……まさか)

視線があったまま、
時間が止まったみたいに、お互い動けなくなる。

「……俺のことを、知ってるんですか?」

絞り出した出た声は、少し震えている。

上田の母親は、声も出せずに頷いた。

アイドルだったとはいえ、
実際はデビューを果たせなかった、ただの研修生。
アイドルとしては歴史に埋もれた有象無象にすぎない。

だから、そんな俺のことを、覚えている人なんて、
もはやこの世には存在しないと思っていた。

「やっぱりそうなんですね……! ずっと、ずっと会いたかった……」

彼女はその場でくずおれて、涙を流す。

滅びた国の王と、忠臣の再会。
そんな場面を、ふと思い浮かべた。

(……くるしゅうない、くるしゅうない)

心の中でつぶやいて、ふと笑みがこぼれた。

だけど、

「……ごめんね」

俺に恋をさせて、ごめんね。

屈んで手を差し伸べると、
彼女はハッとしたように顔をあげて自力で立ち上がる。

照れたように笑ったその顔は、まるで少女のようだった。
目の端には涙が浮かんでいる。

咳払いをして、彼女は続ける。

「カズキくん、塾長なんてやってるんですね?
成績いいって、本当だったんだ~。
あの頃はキャラ作りためにのウソだと思ってました!」

起き上がるやいなや、勢いよく喋りはじめた。

なんてことを言うんだ。
言葉に詰まって思わず苦笑した。
そもそも、学校名なんて、昔からバレていたはずだ。

(俺の中高が名門って知らなかったのか……?)

上田の進路が、今から不安になる。

「……俺の、いや、私の学校って、入るの難しいんですからね……!」

敬語と一人称が迷走したなと思いつつ、席へ案内する。
ふだんの保護者相手には絶対にしないような、
呆れまじりのラフな口調になっていた。

「いやいや、知ってますよー!
一応、息子を受験させようとしてるんですから!
それにしても、歌って踊れて、カッコよくて、勉強もできたなんて……
神様って不公平ですよねぇ」

うちの子と大違い!と付け足して、
今度は中年特有の大きな声でアハハと笑った。