客間の扉が静かに閉まった。カチリと取っ手が収まる乾いた音が、湿気を含んだ空気に深く響く。
「……ここ、変わってないですね」
湊がぽつりと呟く。荷物をソファの脇に置きながら、視線をゆっくりとリビングへ巡らせた。窓辺の観葉植物、木目のローテーブル、落ち着いたグレーのカーテン。すべてが、彼の記憶にあるままだった。
「そうね。崇さんも、特に変えようとは言わないから――」
綾乃の声は穏やかだったが、その語尾にわずかな寂しさが滲んでいた。湊はその響きに瞳を細める。この家も、この部屋も――変わっていないのは、きっと物だけではない。
「兄貴、相変わらず忙しいんですね」
「ええ。朝は会話もなくて、夜は帰りが遅いから……」
言いながら、綾乃はふと口を噤んだ。それは“弟”に語るべき内容ではないはずだった。けれど、口が自然に動いてしまうのはなぜだろう。
「少し……痩せました?」
唐突な一言に、綾乃は驚いて湊を見つめた。自分に注がれる視線はやけにまっすぐで、優しいのに逃げ道を与えてくれない。綾乃はほんの一瞬、口元に曖昧な笑みを浮かべる。
「年齢のせいかしら」
「そうじゃないと思います」
その言い方になにかを見透かされたようで、綾乃は瞼を伏せた。
ソファに腰かけ、テーブルの上のガラスコースターを指先でなぞる。湊にかけるべき言葉が浮かんでは沈み、胸の奥で波紋のように消えていく。
「綾乃さん」
名を呼ばれ、ハッとして顔を上げる。思っていたよりも近くに湊がいた。
「はい?」
「俺、ずっと考えてました。兄貴の隣にいるあなたが、どうしてあんな顔をしていたのかを」
低く落ち着いた声。その響きが、心の奥に触れる。なにかが微かに揺れた。
「三年前、最後に会ったとき……俺、きっと知りたかったんです。兄貴じゃなくて、“あなた”の気持ちを」
綾乃は言葉を失った。心臓が、不自然なほどゆっくりと鳴っていた。
「湊さん、それ以上は――」
「大丈夫です。ただ、聞かせてほしいだけです。今のあなたが、しあわせなのか」
リビングに沈黙が落ちる。窓の外では、雨が静かに降り続いていた。
――今のあなたが、しあわせなのか。
端的なその問いが、綾乃の胸の深くへゆっくりと沈んでいく。
湊はそれ以上、なにも言わなかった。ただ黙って、真顔のまま彼女の答えを待っていた。
焦らすような目でも、責めるような色もない。ただ、どこまでも真っ直ぐに――綾乃という人間だけを今は見つめる。
「それ、答えなきゃいけないの?」
掠れた声が喉から漏れ出る。誰にも言ったことのない感情が、ふと顔を覗かせそうになって怖かった。
「答えたくないなら、それでもいいです。無理はしません」
湊の声は驚くほど優しい。その優しさが、かえって綾乃の心の壁を脆くする。
「私は、ちゃんと“妻”をやってるつもりだったのよ」
視線を落とし、膝の上で無意識に手を強く握る。爪が食い込むほどに――。
「間宮の家に嫁いで、崇さんの妻として“隣”に立つのが仕事だって、ずっと自分に言い聞かせてた。父の会社のためでもあったし、私には選択肢なんてなかった……」
そこまで語ったところで、綾乃の唇にふっと笑みがこぼれる。皮肉の混じった、大人の笑いだった。
「でも……ね。時々、誰かに聞かれたくなるの。“あなたはそれでしあわせなの?”って」
顔を上げると、すぐ傍で膝をついた湊のまなざしが綾乃を捉えた。その澄んだ瞳に、綾乃は言葉を飲む。
「俺じゃ、ダメですか?」
吐き出されたその一言が、静かに綾乃の胸を貫いた。
「……湊さん」
義弟の名を呼んだ声が掠れる。あと一歩。その一言で、すべてが変わってしまう――それが怖かった。
「私……いま、泣きそうよ――」
堪えきれず、綾乃は視線を逸らす。瞼の奥がじんわりと熱くなる。
湊はそこから動かない。ただ静かに綾乃の傍にいて、膝に置かれた綾乃の手に、自分の指先を重ねる。
「……ここ、変わってないですね」
湊がぽつりと呟く。荷物をソファの脇に置きながら、視線をゆっくりとリビングへ巡らせた。窓辺の観葉植物、木目のローテーブル、落ち着いたグレーのカーテン。すべてが、彼の記憶にあるままだった。
「そうね。崇さんも、特に変えようとは言わないから――」
綾乃の声は穏やかだったが、その語尾にわずかな寂しさが滲んでいた。湊はその響きに瞳を細める。この家も、この部屋も――変わっていないのは、きっと物だけではない。
「兄貴、相変わらず忙しいんですね」
「ええ。朝は会話もなくて、夜は帰りが遅いから……」
言いながら、綾乃はふと口を噤んだ。それは“弟”に語るべき内容ではないはずだった。けれど、口が自然に動いてしまうのはなぜだろう。
「少し……痩せました?」
唐突な一言に、綾乃は驚いて湊を見つめた。自分に注がれる視線はやけにまっすぐで、優しいのに逃げ道を与えてくれない。綾乃はほんの一瞬、口元に曖昧な笑みを浮かべる。
「年齢のせいかしら」
「そうじゃないと思います」
その言い方になにかを見透かされたようで、綾乃は瞼を伏せた。
ソファに腰かけ、テーブルの上のガラスコースターを指先でなぞる。湊にかけるべき言葉が浮かんでは沈み、胸の奥で波紋のように消えていく。
「綾乃さん」
名を呼ばれ、ハッとして顔を上げる。思っていたよりも近くに湊がいた。
「はい?」
「俺、ずっと考えてました。兄貴の隣にいるあなたが、どうしてあんな顔をしていたのかを」
低く落ち着いた声。その響きが、心の奥に触れる。なにかが微かに揺れた。
「三年前、最後に会ったとき……俺、きっと知りたかったんです。兄貴じゃなくて、“あなた”の気持ちを」
綾乃は言葉を失った。心臓が、不自然なほどゆっくりと鳴っていた。
「湊さん、それ以上は――」
「大丈夫です。ただ、聞かせてほしいだけです。今のあなたが、しあわせなのか」
リビングに沈黙が落ちる。窓の外では、雨が静かに降り続いていた。
――今のあなたが、しあわせなのか。
端的なその問いが、綾乃の胸の深くへゆっくりと沈んでいく。
湊はそれ以上、なにも言わなかった。ただ黙って、真顔のまま彼女の答えを待っていた。
焦らすような目でも、責めるような色もない。ただ、どこまでも真っ直ぐに――綾乃という人間だけを今は見つめる。
「それ、答えなきゃいけないの?」
掠れた声が喉から漏れ出る。誰にも言ったことのない感情が、ふと顔を覗かせそうになって怖かった。
「答えたくないなら、それでもいいです。無理はしません」
湊の声は驚くほど優しい。その優しさが、かえって綾乃の心の壁を脆くする。
「私は、ちゃんと“妻”をやってるつもりだったのよ」
視線を落とし、膝の上で無意識に手を強く握る。爪が食い込むほどに――。
「間宮の家に嫁いで、崇さんの妻として“隣”に立つのが仕事だって、ずっと自分に言い聞かせてた。父の会社のためでもあったし、私には選択肢なんてなかった……」
そこまで語ったところで、綾乃の唇にふっと笑みがこぼれる。皮肉の混じった、大人の笑いだった。
「でも……ね。時々、誰かに聞かれたくなるの。“あなたはそれでしあわせなの?”って」
顔を上げると、すぐ傍で膝をついた湊のまなざしが綾乃を捉えた。その澄んだ瞳に、綾乃は言葉を飲む。
「俺じゃ、ダメですか?」
吐き出されたその一言が、静かに綾乃の胸を貫いた。
「……湊さん」
義弟の名を呼んだ声が掠れる。あと一歩。その一言で、すべてが変わってしまう――それが怖かった。
「私……いま、泣きそうよ――」
堪えきれず、綾乃は視線を逸らす。瞼の奥がじんわりと熱くなる。
湊はそこから動かない。ただ静かに綾乃の傍にいて、膝に置かれた綾乃の手に、自分の指先を重ねる。



