朝食のあと、湊は一度客間に戻り、仕事の準備をしていた。けれど頭のどこかは、まだリビングに置き忘れてきたまま――。
綾乃の後ろ姿。ふとした瞬間の、微かな手の震え。それに気づいたとき、自分の心がぞわりと揺れたのを、誤魔化せなかった。
(――あの人、ちゃんと眠れたのかな)
ふとした言葉をかけるたびに彼女は一瞬、呼吸を止めるように見えた。ぎこちない笑み。瞼を伏せる仕草――そして、徹底的に目を合わせてくれない。
(――昨日、俺が帰らなかったから?)
理由なんて、聞けるはずがなかった。兄の妻に、それ以上のことを望んではいけないと、ずっと自分に言い聞かせてきた。けれど、それでも――。
「義姉さん」
思わず口から出てしまった言葉に、自分で軽く舌打ちしたくなった。声をかけたかったわけじゃない。ただ、名前を呼びたかっただけだった。
彼女が反応するその一瞬に、心がどうしようもなく引き寄せられる。
朝のテーブルに向かいながら、ふと目をやった先。焼かれたパン、きちんと整った器の並び。日常のありふれた些細なことなのに、そこに込められた“誰かのため”の気配を、敏感に察知してしまう。
(この家で、彼女はずっと――誰かの“役目”ばかり、してきたんだな)
優等生で、間宮の妻で、兄の支えで。
だけど、それ以外の“綾乃”は誰が見てくれているのだろう。彼女の不安も、孤独も努力も、どれだけの人が気づいているのか。
それを思うたび、湊の中にある感情が静かに膨張していった。
朝の支度が終わり、綾乃がダイニングの隅で湯呑を片づけている。その背中に、「行ってきます」と声をかけようとする自分がいた。日常の何気ない一言。けれど、それを言えば――。
(たぶん俺、普通の声では言えない)
心がもう限界に近づいている。隠しているつもりでも、声に出せば滲み出てしまいそうだった。
「……」
唇を開いたものの、結局なにも言えずに背を向けた。足音をなるべく静かにして、玄関のドアを開ける。振り返らないまま家を出た。
(……でも、ほんとは――)
そのまま胸の内で呟いた。
――行ってきます、って。だから、ただ「行ってらっしゃい」って、言ってほしかっただけなのに。
荷物を持った手を、そっと玄関のドアノブにかける。音を立てないよう注意しながら靴を履くのは、ただの気遣いではなかった。
今この家に、自分の存在が「静かに消えていく」ことを選ぶような――そんな気がした。
綾乃の後ろ姿。ふとした瞬間の、微かな手の震え。それに気づいたとき、自分の心がぞわりと揺れたのを、誤魔化せなかった。
(――あの人、ちゃんと眠れたのかな)
ふとした言葉をかけるたびに彼女は一瞬、呼吸を止めるように見えた。ぎこちない笑み。瞼を伏せる仕草――そして、徹底的に目を合わせてくれない。
(――昨日、俺が帰らなかったから?)
理由なんて、聞けるはずがなかった。兄の妻に、それ以上のことを望んではいけないと、ずっと自分に言い聞かせてきた。けれど、それでも――。
「義姉さん」
思わず口から出てしまった言葉に、自分で軽く舌打ちしたくなった。声をかけたかったわけじゃない。ただ、名前を呼びたかっただけだった。
彼女が反応するその一瞬に、心がどうしようもなく引き寄せられる。
朝のテーブルに向かいながら、ふと目をやった先。焼かれたパン、きちんと整った器の並び。日常のありふれた些細なことなのに、そこに込められた“誰かのため”の気配を、敏感に察知してしまう。
(この家で、彼女はずっと――誰かの“役目”ばかり、してきたんだな)
優等生で、間宮の妻で、兄の支えで。
だけど、それ以外の“綾乃”は誰が見てくれているのだろう。彼女の不安も、孤独も努力も、どれだけの人が気づいているのか。
それを思うたび、湊の中にある感情が静かに膨張していった。
朝の支度が終わり、綾乃がダイニングの隅で湯呑を片づけている。その背中に、「行ってきます」と声をかけようとする自分がいた。日常の何気ない一言。けれど、それを言えば――。
(たぶん俺、普通の声では言えない)
心がもう限界に近づいている。隠しているつもりでも、声に出せば滲み出てしまいそうだった。
「……」
唇を開いたものの、結局なにも言えずに背を向けた。足音をなるべく静かにして、玄関のドアを開ける。振り返らないまま家を出た。
(……でも、ほんとは――)
そのまま胸の内で呟いた。
――行ってきます、って。だから、ただ「行ってらっしゃい」って、言ってほしかっただけなのに。
荷物を持った手を、そっと玄関のドアノブにかける。音を立てないよう注意しながら靴を履くのは、ただの気遣いではなかった。
今この家に、自分の存在が「静かに消えていく」ことを選ぶような――そんな気がした。



