触れてはいけない距離

 次の日の夜、綾乃は遅くまでリビングにいた。テレビの音は消しているのに、画面の明滅が壁に映るのが妙にうるさく感じた。

 目の前に広がる静寂が痛い。もうとっくに日付は変わっていたが、崇は珍しく帰宅していた。だけど相変わらず会話はない。声をかける隙もなければ、かけたい言葉も思い浮かんでこなかった。

 今現在の崇は、自室にこもったまま――。

(……湊くん今日、帰ってこなかった)

 そのことを考えついた瞬間、自分でも驚くほどに心が冷えている現状に気づく。

 いつからだろう。彼が家にいると、空気がほんの少し柔らかくなるように感じた。彼がなにか言うでも、笑いかけるでもない。ただ、そこにいるだけで――少しだけ、呼吸がしやすかった。

 けれど今日のリビングは、その“気配”すらない。

(……いないのに、また探してる)

 その事実に気づいて、思わずぎゅっと毛布を胸に抱え込む。まるでなにかから逃げるように、ソファに身体を沈めた。

 そうじゃない。そう思いたかった。けれど、心に嘘をつけなかった。

 自分の中のどこかが、湊の声を求めている。あの少し掠れた優しい声で、名を呼ばれたときの感覚を――忘れられないでいる。

(どうして……どうしてこんなふうになったの?)

 綾乃は目を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは、夫の崇ではない。それは湊の姿で――。

 名前を呼ばれたときの胸の高鳴り。目が合ったときのあの息苦しさ。兄の妻という境界線をわかっているのに、心がどうしても反応してしまう。

 ――背徳でも、錯覚でもない。

 この冷たい家で「誰かに見られている」という実感。「ひとりの人間として存在していい」という温度。

 そんなものを、彼の視線から拾い上げてしまった。

「逢いたい、なんて――」

 言葉にした途端に、胸の奥がぐらりと揺れる。そんなこと、思ってはいけない。言ってはいけない。なのに今夜は彼の不在が、なによりも心に堪えた。

 綾乃はソファから立ち上がり、マグカップをそっと片づけた。紅茶の残りは冷たくなり、まるで自分の気持ちのよう。

 部屋に戻っても眠れない気がした。自分の寝室にすら、もう安らぎを感じられない。崇のいるこの家で、ひとりきりの夜だから。