触れてはいけない距離

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 時計の針が日付をまたぐ。リビングにはまだ崇の姿はない。これだっていつものこと――。

 綾乃はカップの中で冷めきった紅茶をじっと見つめたまま、まばたきすら忘れていた。リモコンに指をかけるでもなく、テレビはただ無音の映像だけを流し続ける。

 時間だけが、無遠慮に過ぎていった。

(――こんな夜、何度目になるんだろう)

 崇との結婚生活は、最初から静かだった。激情もなく衝突もなく、ただ穏やかな日常の繰り返し。

 ――けれどそれは、感情のない沈黙の連続だったのかもしれない。

「なにをしていても、君は綺麗だよ」

 最初に交わしたのは、そんな決まり文句のような言葉。でもその「綺麗」は感情ではなく、評価のように綾乃の耳に聞こえた。

「君なら、間宮の名前に恥じない」

 求められたのは、ひとりの女としての“わたし”ではなかった。いつだって“間宮の妻”としての役割。そう思い込むことで、自分を守ってきたのに。

(なのに――なんで湊の言葉は、こんなに刺さるの?)

「朝ごはん抜かないの、偉い」

 たったそれだけの言葉が、胸を締めつける。自分の“努力”に、誰かが気づいてくれたというだけで、ひどく心が揺れた。

 そんな自分が、一番許せない。

(わたし、崇さんのこと……ちゃんと好きだったはずなのに)

 それは優しさだったのか、情だったのか、それとも――。

 正直、もうわからない。

 目を閉じても、崇の表情は浮かばなかった。代わりに朝の食卓で一瞬だけ向けられた、冷たい無言のまなざしが胸を刺す。

(気づかれてる。きっと、全部……)

 追及されることはなかった。責められも、問いただされもしない。ただ静かに崇は一歩ずつ、無言で遠ざかっていく。

 それが一番、苦しかった。

「……ごめんなさい」

 誰にともなく呟く。崇に?  湊に?  自分自身に?

 ソファに沈み込むように体を丸め、毛布をかき寄せた指先が冷え切ったまま、胸元を彷徨う。

(このまま、なにもなかったフリなんて――できるわけがない)

 目尻に一滴、熱がこぼれた。それはようやく溶け出した、彼女自身の本音だった。