触れてはいけない距離

 接待という名の会食を終えた車内。フロントガラス越しに流れる街の光は、どれも現実感がなく、崇はひとり無言のままハンドルを握っていた。

 上司の話も部下のミスも、今日のワインの銘柄すら今はどうでもいい。ただ頭の片隅にずっと、ある映像だけが居座った。

 ――綾乃の笑顔。

 湊の何気ない言葉に応じた、あのときの表情。控えめで柔らかく、そして……やけに無防備だった。

(あんな顔、俺には一度も見せたことがない――)

 そう思った瞬間、胃の奥に鈍い鉛のような痛みが沈む。

 綾乃は自分の妻だ。契約という形の上では、誰が見ても俺の妻。だが、自分は彼女のなにを知っているのだろうか?

 好む味も眠るときの癖も、あの日の涙の理由も――すべて知らない。知らないまま、誰にも渡さないつもりだった。

「おかしいな……」

 ひとりごとのように漏れた声に、自嘲が滲む。理性的であろうと冷静を装おうと、内側はぐずぐずと焦げはじめた。

 湊が綾乃を見る目。綾乃がそれを拒んでいないこと。既に気づいている、ずっと前から。けれど口には出さなかった。問いただせば終わる気がした。問いただした瞬間、なにかが“壊れる”気がして、どうしてもできなかった。

(俺の妻が、他の男に見せる笑顔を黙って見ていることのほうが、よほど壊れているというのにな)

 苦笑しながら無意識に、左手の薬指へと視線が落ちる。指輪がそこにある。どこまでも静かに、冷たい光を灯して。

 ――これは拘束具だ。彼女を縛るための、そして俺自身をも縛るための。

「誰にも、渡さない」

 声にはならない車内の呟きが、胸の底にうんと深く沈み込む。

 帰宅時間が遅くなると伝えていたのは、会食の予定が長引くと踏んでのことだった。だが今は――まだ帰れない。

 このまま帰れば、感情がどうしても滲み出てしまう。あの場では押し込めた本音が、今にも崩れそうだった。

(俺はあの女にとって――ただの“正しさ”だったのか?)

 冷静さという名の仮面は名前のつけたくない熱で、内側から溶けかけていた――。