触れてはいけない距離

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 エンジンの振動が微かに手に伝わる。いつもと同じ道、いつもと同じ朝。それなのに、胸の内だけが妙にざわついていた。

 信号待ちの間、崇は無意識にハンドルを握る手に力を込める。

 ――綾乃の笑み、なんだあれは……。

 さきほどの食卓、何気ない朝のハズだった。だが湊の言葉に応じた綾乃の笑顔は、どこかやわらかで、自然で――。

(俺には、見せたことのない顔だった。あの笑みを、いつか見たことがあっただろうか。たとえば――結婚式の朝? いや、違う。あれは義務としての笑顔だ)

 そう思った瞬間、胸の奥に鈍いものが疼く。

 合理的であろうとする崇にとって、「嫉妬」や「猜疑」は最も忌むべき感情だった。無駄で、非効率で、判断を誤らせるノイズに過ぎない。

 だがそれが今、自分の中に明確にある。

「……くだらない」

 低く呟いても、脳裏にこびりついた映像は剥がれなかった。

 綾乃が湊にだけ見せた、あの目と口元。それを“たまたま”と切り捨てるには、あまりに不自然すぎる。湊は、気づいていないわけではなかった。わざとではないにせよ、あれは――。