触れてはいけない距離

 食卓に、軽やかにカトラリーの音が響いた。

 目玉焼きにトースト、簡単なサラダとヨーグルト。忙しい朝の定番メニューに、特別な意味はない。けれど今日は、テーブルを囲む三人の顔ぶれが、いつもと違った。

「……いただきます」

 綾乃の声に続き、崇と湊も短く口を揃える。誰かが笑うでもなく、和やかな空気が広がるわけでもない。ただそれぞれが、自分の皿に向かってフォークを動かす。時計の針の音と、時おり響くカップの擦れる音だけが部屋を満たした。

 崇はいつも通り、スマートフォンに視線を落としながら朝食をとっている。食事の味や話題には関心がない。無駄を嫌う彼のスタイルは、結婚当初からなにも変わっていなかった。

 一方で湊はというと箸を動かしながらも、どこか所在なさげに視線を泳がせる。コーヒーを一口飲むたび、目の前に座る綾乃をちらりと盗み見たり――そんな素振りを、綾乃は気づかぬふりをして受け流した。

(――気づかれちゃダメ)

 昨夜のことが熱を帯びて、胸の奥にじんと残っている。たった数語の会話、それだけで綾乃は十分だった。それなのに今の湊の言葉も視線も、明らかに”他人のもの”じゃなかった。

「どうだ、東京の仕事は。忙しいのか?」

 突然、崇が口を開いた。その視線は珍しくスマホではなく、湊に向けられている。

「まあ、ぼちぼち。こっちのスタジオは設備も整ってるし、撮る側としては結構やりやすいかな」
「へぇ……お前も少しは大人になったようだな」

 その言い方には、皮肉とも照れ隠しともとれるような温度があった。湊は苦笑いしながらフォークを置く。

「大人ってほどでもないよ。兄貴みたいに、なんでも計算通りに生きてきたわけじゃないし」
「それがいいとは限らない」

 そう返した崇の表情は読めなかった。湊もそれ以上は言葉を重ねず、ふと綾乃の皿に目をやる。

「……義姉さん、相変わらずちゃんと食べてるんだね。朝ごはん抜かないの、偉い」

 その一言に綾乃は一瞬、手の動きを止めた。

「ええ……まあ、習慣になってるから」

 平然を装って答える。でもその言葉の端に柔らかな笑みを添えてしまったのは、意識してのことではなかった。

 崇は気づいたのか、気づかないふりをしたのか、カップを持ち上げて黙ったままコーヒーを口に運ぶ。

(この空気……なんだか気まずい)

 なにもなかった顔で、なにかが始まりそうな空気を抱えながら、三人はテーブルに座っている。同じ料理を食べ、同じ時間を過ごしているのに、それぞれがまったく違う場所を見ているような感覚が確かにあった。

「ごちそうさま」

 崇が立ち上がり、時計を見ながらネクタイを直した。

「今夜は会食があって遅くなる」

 それだけ言い残し、上着を手に玄関へ向かっていく。その背中に綾乃は「行ってらっしゃい」を言いそびれた。

 残された食卓には湊と綾乃。ふたりきりの空間。静けさのなかに、空気の濃度が変わった気がした。