***
雨の音が、やけに近くに感じられる朝だった。
薄明かりの寝室。綾乃はダブルベッドの上でゆっくりとまぶたを開け、天井を見上げる。隣には誰もいない。――その事実に、もはやなんの感情も湧かなくなって久しかった。
最後に夫の崇とこのベッドで眠ったのは、いつだっただろう。思い出そうとしても、指の隙間から水がこぼれるように、記憶は曖昧に滲んでいく。
隣の部屋から、目覚まし時計のけたたましい電子音が聞こえた。崇の起床時間。けれどその音すら他人の生活音のように遠く、乾いた響きで耳に届いた。
綾乃は静かに身を起こし、冷えた足をスリッパに滑り込ませる。伸びを一つしてから、寝間着のままキッチンへ向かった。コーヒーメーカーが低く唸りながら、朝の支度を告げている。漂いはじめた芳醇なコーヒーの香りが、無言の室内にかすかな温度をもたらした。
ダイニングでは崇がすでにスーツ姿で椅子に腰掛け、スマートフォンの画面を睨むように見つめて、こちらには一瞥もくれない。これもいつもの朝の風景。
「おはようございます」
綾乃が声をかけると、崇は画面から目を離さないまま答えた。
「ああ」
たったそれだけ。会話の体をなしていないやりとりにも、今では慣れてしまった。
この家に流れる空気は、いつからか冷たく、ひどく乾いている。感情は置き去りにされたまま、ただ役割を果たすだけの日々。
政略結婚――その言葉がすべてを物語っていた。間宮家と父の会社を結ぶ、都合のいい接着剤。それが、綾乃という女の現在地だった。崇はそれを否定もしないし、慰めもしない。ただ無言で受け入れ、機械的に綾乃を“妻”として扱っている。
そんな空気の中、不意に彼が口を開いた。
「今日、湊が来る」
綾乃の手がぴたりと止まる。持っていたマグカップの取っ手を、思わず持ち替えた。
「……湊さん?」
「ああ。東京で撮影があるらしくて、しばらくこっちに滞在する。悪いが、客間の準備を頼む」
「わかりました……」
努めて笑みを作ったつもりだった。でも、内心はざわついていた。
崇の弟、間宮 湊。最後に会ったのは三年前。まだ大学を卒業したばかりの彼は少年の面影を残したまま、自由な瞳で世界を見つめていた。
――あのまなざしが、どこか胸に引っかかっていた。
今、彼はどんな姿になって戻ってくるのだろう。記憶の中の湊が“弟”ではなく、“ひとりの男”として現れる気がして――綾乃は無意識にマグカップを握りしめる指先に力を込めた。
淹れたてのコーヒーの香りに、微かに混じる雨の匂い。それは音もなく、日常を塗り替えていく前触れのようだった。
雨の音が、やけに近くに感じられる朝だった。
薄明かりの寝室。綾乃はダブルベッドの上でゆっくりとまぶたを開け、天井を見上げる。隣には誰もいない。――その事実に、もはやなんの感情も湧かなくなって久しかった。
最後に夫の崇とこのベッドで眠ったのは、いつだっただろう。思い出そうとしても、指の隙間から水がこぼれるように、記憶は曖昧に滲んでいく。
隣の部屋から、目覚まし時計のけたたましい電子音が聞こえた。崇の起床時間。けれどその音すら他人の生活音のように遠く、乾いた響きで耳に届いた。
綾乃は静かに身を起こし、冷えた足をスリッパに滑り込ませる。伸びを一つしてから、寝間着のままキッチンへ向かった。コーヒーメーカーが低く唸りながら、朝の支度を告げている。漂いはじめた芳醇なコーヒーの香りが、無言の室内にかすかな温度をもたらした。
ダイニングでは崇がすでにスーツ姿で椅子に腰掛け、スマートフォンの画面を睨むように見つめて、こちらには一瞥もくれない。これもいつもの朝の風景。
「おはようございます」
綾乃が声をかけると、崇は画面から目を離さないまま答えた。
「ああ」
たったそれだけ。会話の体をなしていないやりとりにも、今では慣れてしまった。
この家に流れる空気は、いつからか冷たく、ひどく乾いている。感情は置き去りにされたまま、ただ役割を果たすだけの日々。
政略結婚――その言葉がすべてを物語っていた。間宮家と父の会社を結ぶ、都合のいい接着剤。それが、綾乃という女の現在地だった。崇はそれを否定もしないし、慰めもしない。ただ無言で受け入れ、機械的に綾乃を“妻”として扱っている。
そんな空気の中、不意に彼が口を開いた。
「今日、湊が来る」
綾乃の手がぴたりと止まる。持っていたマグカップの取っ手を、思わず持ち替えた。
「……湊さん?」
「ああ。東京で撮影があるらしくて、しばらくこっちに滞在する。悪いが、客間の準備を頼む」
「わかりました……」
努めて笑みを作ったつもりだった。でも、内心はざわついていた。
崇の弟、間宮 湊。最後に会ったのは三年前。まだ大学を卒業したばかりの彼は少年の面影を残したまま、自由な瞳で世界を見つめていた。
――あのまなざしが、どこか胸に引っかかっていた。
今、彼はどんな姿になって戻ってくるのだろう。記憶の中の湊が“弟”ではなく、“ひとりの男”として現れる気がして――綾乃は無意識にマグカップを握りしめる指先に力を込めた。
淹れたてのコーヒーの香りに、微かに混じる雨の匂い。それは音もなく、日常を塗り替えていく前触れのようだった。



