雨上がりの夕方だった。
街を覆う雲はまだ重く、橙色の光が滲むように差し込んでいる。

「……ただいま」
その言葉は、今日も聞こえなかった。

玄関の扉が閉まる音。置かれた鞄の沈んだ音。
まるで感情を捨てた機械のように、無言の彼女が帰ってくる。

足取りはいつにも増して重かった。
ベッドの傍に腰を落とすと、スマートフォンを取り出して、ただじっと画面を見つめている。
その指先が、ほんの少しだけ震えていた。

やがて彼女は、それを伏せるように胸元で抱きしめ、目を閉じた。

(……今日は、なにがあったんだろう)

部屋の空気が、微かに変わっていた。
甘く、でも濁った匂い。
“あの存在”がまた彼女に何かをしたのだと、身体が覚えていた。

でも彼女は、泣かない。
そのかわりに、呼吸が浅くなっていく。
肩が、ほんの少しだけ揺れている。
崩れ落ちそうな心を、黙って、押しとどめている。

「……聞いたら、終わっちゃうもんね」

ぽつりと呟かれたその声は、掠れていて、どこか遠かった。
誰に、何を言っているのかもわからない。
でもその表情が、胸に刺さる。

シロはそっと彼女に近づき、鼻先で手に触れた。
「泣かないで」と言いたくて。
「ここにいるよ」と伝えたくて。

でも、その気持ちは音にならず、届くはずの言葉はどこにもなかった。

触れられるのに、抱きしめられない。
そばにいるのに、支えることができない。

(……言葉が、ほしい)

彼女が震えているその手を、どうして自分は握れないんだろう。
この痛みを知っているのに、なにもしてやれない自分が、悔しくてたまらなかった。

(彼女の隣にいたい)
(彼女の痛みに触れたい)
(言葉を交わしたい――)

それはもう、ただの憧れではなかった。
それは、衝動ではなく、祈りでもなく、
明確な“意志”だった。

――人間になりたい。
この人を守るためじゃない。恩返しでもない。
ただ、彼女の涙に、触れられる存在になりたい。

その夜。
誰にも気づかれぬ静寂の底で、世界の歯車が、ごくわずかに動いた。

ほんの、小さな、小さな軋みだった。
だがそれは、確かに――すべての始まりだった。