真夜中の2時、玲奈はアパートの玄関で鍵を探していた。
静かな廊下に、彼女のバッグを漁る音だけが響く。
ふと、背後で微かな息遣いを感じた。
振り返ると、誰もいない。
エレベーターの数字は「3」で止まったまま。
彼女の部屋は5階だ。
「疲れてるだけ」と自分を落ち着かせ、部屋に入った。

ベッドに横になった瞬間、電話が鳴った。
画面には「非通知」の文字。
無視しようとしたが、鳴り続ける音に負け、恐る恐る出た。
「玲奈、遅かったね」
男の声は低く落ち着いていて、どこか親しげだ。
玲奈の心臓は跳ねた。
「誰ですか?」
「今、部屋にいるよね? 黒いセーター、ジーンズ。鍵を探すとき、焦ってた」
血の気が引く。
窓に近づき、カーテンをそっと開ける。
外は暗く、街灯の下に人影はない。

「やめてください。警察を呼びます」と声を震わせると、男は笑った。
「呼べばいい。でも、玲奈、僕はずっと見てきたよ。月曜の朝、コーヒーをこぼしたこと。金曜の夜、友達と笑ってたこと。昨日、鏡の前で髪をとかす君を」
声は優しく、まるで恋人のように語る。
玲奈は鏡を振り返る。
自分の青ざめた顔だけが映っている。
「どこにいるんですか!」と叫ぶと、電話は切れた。

静寂が重くのしかかる。
鍵をかけ直し、警察に電話しようとしたが、電池が切れている。
充電器につなぐ手が震える。
すると、部屋の中から声がした。
「玲奈、慌てないで」
男の声だ。
電話からではない。
生の声。
心臓が止まりそうになり、部屋を見回す。
クローゼット、ベッドの下、カーテンの裏。
誰もいない。
なのに、耳元で囁く。
「僕はずっとそばにいるよ」

頭が混乱する。
これは幻聴か? ストレスか?
玲奈は目を閉じ、深呼吸して呟く。
「現実じゃない。落ち着け」
だが、声は続く。
「君の好きなミントの香水。冷蔵庫の残り物のピザ。ベッドのシーツの感触。全部知ってるよ」
彼女の私生活が、次々と暴かれる。
どうやって? いつから? 見られている? 盗聴器? カメラ? 壁を叩き、家具をひっくり返す。
だが何も見当たらない。

「もうやめて!」と叫ぶと、声は優しく答えた。
「逃げられないよ、玲奈。君は僕の一部だ」
その瞬間、電気が消え、部屋は真っ暗になった。
息を殺して立つ彼女の耳に、別の音が混じる。
自分の呼吸ではない。
誰かのゆっくりとした、湿った息遣い。
首筋に冷たい空気が触れる。
振り返る勇気はない。
声が耳元で囁く。
「僕を見つけてごらん」

玲奈はドアに走り、鍵を回す。
廊下に出た瞬間、静寂が襲ってくる。
エレベーターはまた「3」で止まっている。
階段を駆け下り、警察署へ向かった。
だが駅に着く頃、携帯が震えた。
画面にはまたも「非通知」の文字。
恐る恐る出ると、声が言った。
「玲奈、どこに行くの? 僕はずっとそばにいるよ」
彼女は凍りつく。
背後で、ゆっくりとした足音が近づく。
振り返れない。
心の中で、声が自分自身のものに変わっていく気がした。

翌日、玲奈のアパートは空だった。
警察は「失踪」と記録したが、証拠はゼロ。
ただ、彼女の携帯に最後の通話記録が残っていた。
発信元は、彼女自身の番号だった。