昼過ぎ。どんよりとした曇り空の下、レオは足取り重く玄関の扉を開けた。鍵を回す手にも力が入らず、咳を堪えながら靴を脱ぐ。
制服の襟元には微かに汗の跡。体の芯が火照るような感覚と、首筋にまとわりつく寒気が交互に襲ってきていた。
──熱……あるな
額に手を当てても、普段の感覚より遥かに熱い。喉もひどく痛む。
仕事中も何度か立ちくらみを起こし、上司に促されて早退してきたのだが、ようやく家に帰り着いた今、気の張りが抜けたのか、立っているのもやっとだった。
「……ヨル、いるか……?」
かすれた声で呼びかけながら、壁に手をついてリビングの扉を開ける。
見慣れた室内の景色が、少しぼやけて見えた。
「おかえり、レオ。早かったね」
連絡の無い早帰りに驚きつつ、どこか嬉しそうに出迎えるヨル。だが、彼の体調が悪そうなことに気づくと心配そうに駆け寄った。
「...どうしたの?」
ヨルが近づくと安心したのか体重を預けて倒れ込むレオ。額に触れれば40度に届きそうなほどの熱。
「……悪い、ちょっと……立ってるのが……」
崩れるようにヨルの肩に体を預けた。細い体に寄りかかるのは申し訳ないとわかっていても、もう支えてもらわなければ倒れてしまいそうだった。
「頭が、ぐらぐらする……ごめん、連絡……忘れた」
額に触れる彼女の手がひんやりと心地よく、熱に浮かされた意識の中でその温度だけをはっきりと感じていた。彼女の手が額に触れるたびに心地よく、重たい瞼がさらに落ちそうになる。
「……ちょっと、横に……」
掠れる声でそう言いながら、ふらつく足取りでソファへと移動する。
沈み込むように腰を下ろし、荒い呼吸のまま背を預けると、熱に潤んだ視線の先にヨルの心配そうな顔が映った。
「……悪いな。心配、かけて……」
しんどそうに掠れた声で気にかけるレオに、"私のことより自分のことを"と心の中で愛おしくため息をつく。
彼の部屋から着替えと濡らしたタオルを用意すると、レオの隣にそっと座った。腕を上げるのですら辛そうな彼を見て、熱の汗に濡れた制服を脱がし始める。
レオは、ヨルの指先が胸元のボタンに触れた瞬間、わずかに身じろぎした。だがすぐに力が抜け、されるがままに目を閉じる。
「……ごめん、情けない姿……見せて」
熱に霞む意識の中で、レオはそっと目を開け、傍らにいる彼女を見上げる。
静かに見守るその表情が、やけに優しくて――そのやさしさに、胸が締めつけられた。
「情けなくなんて無い」
レオの身体から熱のこもった上着を脱がせると、熱で火照った肌に冷たい空気が触れ、ほんの少し呼吸が楽になったようだった。
額には汗が滲み、息も少し荒い。ヨルの手がタオルでそっとその汗を拭うたび、微かに眉が動いた。ヨルの手はとても丁寧で、恥ずかしさよりも安心感の方が勝っていた。
「ヨルが、いてくれて……よかった」
汗で乱れた前髪の隙間から、ヨルを見上げる。
その声には、ヨルの存在を頼りにしているのが滲んでいた。
「立てる?」
身体に滲む汗を優しく丁寧に拭き終えると、着替えた部屋着のボタンを止めながら確認するヨル。ソファで寝かせる訳にはいかないから、移動できるかどうかの確認。
レオは小さく頷こうとして、ほんの一瞬だけ顔をしかめた。思うように力が入らない。けれど、ヨルに余計な負担をかけたくなくて、無理やり腕に力を込めて身体を起こす。
「……ん、なんとか……」
そう言いつつも、肩に手を置かれただけで少し揺らいだ身体が、彼の本当の状態を物語っていた。身体を起こすだけで額に滲む汗がまた一筋、こめかみを伝う。
足を床につけると同時にふらつき、ヨルの肩に手を添える。
「……悪い。思ったより、きついな……」
頼りない声で苦笑する彼。
それとほぼ同時、バランスが崩れて支えるヨルを押し倒す形で転んだ。ベッドまでの道に障害物は無いため2人とも怪我はなかったが、レオがヨルに覆い被さるようにして床に転がることになる。
「大丈夫?、レオ」
心配そうに下から見上げるヨル。立つのも難しい状態で、彼女がぶつからないように守りながら倒れたレオ。
咄嗟に手をついてヨルを庇ったものの、床に着いた両腕は震えていた。身体の節々が痛み、熱がさらに上がったのか視界が霞む。ほんのわずか目を閉じて、肩で息をしながらもヨルの無事を確認するように視線を動かした。自分の下で心配そうに見上げる彼女の瞳が、不安と優しさで揺れているのが分かる。
「……ごめん……」
熱に浮かされた声は、息混じりに掠れていた。
苦しげに息を吐きながら、額をヨルの肩口に伏せたまま、しばらく動かない。体は鉛のように重く、全身から力が抜け落ちるような感覚の中、何よりも今、胸の下にあるヨルの細い身体の温もりだけが、はっきりと現実だった。
額からまた汗がひとすじ、ヨルの髪の先に落ちる。レオはふと気づいたように、わずかに眉をひそめた。
「痛くなかったか……?」
自分が彼女に覆いかぶさっていることに、今さらながら気づいたようだった。力が入らない身体をなんとか動かそうとするが、指先まで力が入らず、動けない。彼の息は乱れ、熱のせいか、うっすらと頬にも赤みがさしている。
「大丈夫だよ」
熱のせいで視界が霞んでいるのか、それともヨルの心配そうな瞳に胸を締め付けられたのか——。彼女の身体に触れてしまっていることにすぐ気づくが、起き上がるには力が足りなかった。
「……怪我がなくてよかった……ほんとに、よかった……」
悔しそうな声、それでもどこかに安心の色が混じっていた。彼の指先が、思わずヨルの手に触れた。冷たくて、優しいその感触だけが、今の彼にとって確かな救いだった。
今にも落ちてしまいそうな意識の中、熱い息を吐く彼の背中に腕を回すと、なんとか一緒に上半身を起こす。いつもと違い、自分に身体を預けきるレオと触れている首が彼の熱を感じた。
「もう一度、立てる?」
そう聞くと気力を集めるように短く息を吐き、何とか頷いた。隣から支えるとゆっくりと立ち上がり移動するレオ。
彼は何とかたどり着いたベッドに沈み込みながら、掴んでいたヨルの腕を離すことなく、そのまま彼女を引き寄せてしまっていた。熱で朦朧とする意識の中、ただ彼女を本能的に求めたのかもしれない。
「……ヨル……」
声はかすれていたが、苦しさと申し訳なさが入り混じっていた。
けれどその手は弱々しくも、しっかりとヨルを抱き留めていて――まるで離したら何かを失ってしまうかのようだった。
ヨルを自分の胸元に閉じ込めるようにして、レオはしばらく何も言わなかった。
荒い呼吸と高い体温が、静かな寝室に静かに響く。
「……好きだ……」
すぐにでも意識が途切れそうな声で。ぽつりと呟いたその一言が、彼の素直な本音だった。強くあろうとする男が、唯一無防備でいられる場所がヨルだった。
彼女の髪にかかる息すら熱を帯びているのに、それでもなお彼は離そうとしない。
弱っている姿を見せることが恥ずかしいはずなのに、今の彼にはもうそんな余裕もなかった。
「そんなに無防備な姿、見せていいの?」
温かく包む彼の腕をそっと撫で、彼と唇を重ねる。まるで苦しげな彼から熱を奪うかのように。
熱に浮かされた意識の奥で、レオはそのキスに微かに目を見開いた。けれど、すぐに力を抜いて応える。
ヨルの唇はひんやりとして、燃えるような体に心地よく触れた。まるで本当に、熱を少しだけ吸い取ってくれるような――そんな錯覚を覚えるほどに。
「……そんなことすると風邪うつるぞ……」
かすれた声で囁いた。
触れた唇の感触に、わずかに彼の身体が反応する。熱で火照った頬と、乱れた息遣い。
けれどレオは抵抗しない。ただ、彼女の髪に指を絡め、そっと唇を重ね返す。
まるで、夢を見ているかのように。
「……こうしてると……熱も忘れそうだ」
そう言いながら、彼の声はだんだんと遠のいていく。
眠気と体調に抗えず、ヨルを抱いたまま、静かに意識を手放そうとしていた。
「ゆっくり休んで、レオ」
彼に声が届いているかは分からない。互いの熱を共有しながら、2人で静かな眠りについた。
───翌朝。
窓の隙間から差し込むやわらかな光に、ヨルはゆっくりと瞼を開けた。いつの間にかすっかり熱の引いたレオの腕の中。昨夜の高熱が嘘のように穏やかな寝息を立てて眠っている。
彼の額にそっと手を当てる。
「……熱、下がってる。よかった」
安堵と同時に、体の奥にだるさを感じる。少し頭も重くて、喉が乾くような、そんな違和感。身を起こそうとして――
「……ん、?」
ふらり、と軽く眩暈。思わずベッドの端に手をついてバランスを取るヨル。
その気配に、レオがまどろみの中で目を開けた。かすかに笑みを浮かべながら、まだ眠たそうな声でぼそりと呟く。
「……言ったろ、うつるって……」
目を細めて彼女の頬をそっと撫でる。昨夜、止めたはずのキス。止められなかった自分のせいで、彼女が同じ症状に苦しんでいるとわかった瞬間――レオの顔がほんの少しだけ曇った。
「……ヨル、ごめん。俺……」
言いかけたその言葉を遮るように、ヨルは小さく笑って言った。
「...今度はきみが看病してね」
そして、熱にほんのり染まる顔のまま、そっと彼に身を預けた。
互いの呼吸を感じながら、ふたりだけの静かな朝が始まるようだった。
レオはその言葉に、少し困ったように眉を寄せながらも、どこか愛おしげに目を細めた。
ヨルの熱を帯びた額にそっと触れ、あのときの彼女の仕草を真似るように、優しく汗を拭ってやる。
「……ああ。もちろん」
そう言って、もう片方の手でそっとヨルの細い背を撫でる。
いつもは淡々としていて、どこか遠くにいるような彼女が、こんな風に自分に体を預けてくれる。それだけで、レオの中にほのかに芽生える誇らしさと、どうしようもなく胸を締めつける愛しさがあった。
「ごめんな...」
苦笑混じりに囁く声は、優しく揺れる熱を含んでいる。
そのまま、彼はヨルの額にそっと唇を寄せ、長く静かに口づけた。
そして、彼女の耳元で小さく囁く。
「……早く元気になれよ」
言葉に込められた温もりが、熱を帯びたヨルの身体に深く染み込んでいった。
