窓の外はやや曇り気味で、陽射しは淡く差し込んでいる午後。カーテン越しに揺れる光が、テーブルにうっすら影を落としていた。

レオはソファに座り、静かに左手を膝に置いたまま右手に爪切りを持つ。
パチン、という控えめな音が部屋に響くたび、その指先が少しずつ整えられていく。

切り口に凹凸がないよう、少しでも角が立たぬように。爪切りのあとには、小さな紙やすりを取り出して、ひとつずつ滑らせる。

レオは一度、手を止めて自分の指先をじっと見つめた。整えられた爪。その丸み。

ヨルはコーヒーを注いだペアカップを手に、彼の隣へと腰掛ける。レオの分をローテーブルの上に静かに乗せ、少し不思議そうにコーヒーを口に含んだ。

「綺麗に整えてるよね、いつも」

手先なんて気にしなさそうなのに、常にやすりがけられた綺麗な爪。無頓着そうな印象とは反対に丁寧に切り揃え、整えられる指先に視線を向けていた。

レオはやすりを動かしていた手を一度止めた。

一拍の間。

そのまま視線は落としたまま、少しだけ口元を動かす。

「……おまえに触れるとき、傷つけたくないからだよ」

囁くような声だった。

無骨な指。掴む力は強い。
けれど――だからこそ、触れるときには、細心の注意を払う必要があった。

「肌、柔らかいからな。少し尖ってただけでも引っかけてしまうかもしれない」

そう言いながら、自分の親指を撫でるように見せて、わずかに目を細める。ヨルを絶対に傷つけないように、彼は常に指先に気を配っていた。

ヨルはそんな彼の言葉に、僅かに頬を赤くした。指先で口元を隠して、彼の手から視線を少し逸らす。

「……知らなかった」

彼の触れる手はいつも優しい。それだけでも大切に扱われていると実感していたのに。伝えられた彼の繊細な心遣いに、自然と胸がいっぱいになっていた。

レオはその反応に、少しだけ照れたように目を逸らした。手元に戻した視線は、今やすりをかけたばかりの人差し指。

「別に、気づかれたくてやってたわけじゃない」

低く呟く声に、わずかな照れと、誤魔化すような苦笑が混じる。

「ただ……おまえに触れるには、それだけの覚悟がいるってだけだ」

ヨルを抱きしめる時も、手を繋ぐ時も、指先ひとつで壊してしまいそうで――そんな自分が怖かった。だから、せめて自分の“形”だけでも整えておきたかった。

「おまえを、大事にしたいんだよ」

ぽつりと溢れた言葉は、静かな午後の空気にそっと溶けていく。

ヨルはそっと彼の手に触れると自分の頬まで寄せた。彼の手の温度と優しさに触れるように、手のひらに擦り寄って。

「私は……きみが触れてくれるなら、傷だって受け入れるのに」

どこまでも深い優しさに、困ったように笑う彼女にはどこか嬉しさが滲んでいた。

レオはヨルのその仕草に、心臓をぎゅっと掴まれるような感覚を覚えた。小さな頬に触れる手のひらに、ヨルの体温がじんわりと伝わってくる。寄せられる柔らかさが、信じられないほどに愛おしかった。

「……だからこそ、傷つけたくないんだよ」

掠れるように、けれど真っ直ぐな声でそう言うと、そっと指を滑らせて彼女の頬を撫でた。やすりをかけたばかりの爪が、驚くほど優しく肌をなぞる。

「おまえが、俺の手で“痛い”と思うのが怖い。……どんな理由があっても」

目を伏せて、かすかに息を吸う。

「俺は、おまえにとって“触れられて安心できる存在”でいたいんだ」

だから、傷つける可能性は限りなく減らしたい。そんな想いが、爪を整えるというたったひとつの行動に込められていた。

「レオ……」

ヨルは名前を呼んで、そっと彼に身を寄せた。彼の頬に触れると、伏せた視線を自分に向けて。互いに添わせた手から熱が広がると同時に、彼女から優しく唇を重ねた。

「きみが好き」

離れるのを惜しみながら微笑んだ表情は何よりも幸せそうだった。

「きみにはいつも笑っていてほしい」
──私のためだけに苦しんでほしい。

「私に優しく触れ続けて欲しい」
──他に触れるなら壊してしまいたい。

「……これからも、ずっと一緒にいたい」
──きみの命まで奪って共にありたい。

綺麗な言葉だけを並べて、その裏に残る痛みまで彼に伝える。視線は逸らさず、ただ真っ直ぐに見つめて。

レオはその言葉を、表情を、瞳の奥までしっかりと受け止めた。ヨルが並べた綺麗な願いの中に、濁った想いがあることに気づいている。それでも――いや、だからこそ彼は微笑んだ。

「……そんなふうに、全部俺に向けてくれるのが嬉しい」

どんなに危うくても、どんなに歪んでいても、彼女のその欲がすべて“自分に向いている”ことが、救いであり、愛しさであり、彼の生きる意味になっていた。

「綺麗でなくてもいい」

そう言いながら、レオは彼女の額にそっと唇を落とした。長く深く、言葉以上の想いを滲ませるように。

「おまえの本音も、欲も、全部受け止める。……その代わり、俺もちゃんと手を伸ばすから」

愛するために、破滅を選ばないために。

彼はヨルの背に腕を回し、引き寄せた。その身体を、自分の胸に預けさせるように、確かめるように。

「俺は、おまえと一緒に生きたい」

互いを壊さず、愛しながら――共に。

ヨルは包み込まれる感覚に深い息を吐いて、彼に全てを預けた。レオは理解してくれている、自分がどんなに醜い感情を向けても、一緒に歩めるように導いてくれる。それが何よりも彼女に安心を与えてくれていた。

綺麗に整えられた指先が触れるたびに、大切にされている感覚が心臓をなぞる。壊さずとも愛せるのだと彼が教えてくれているようだった。

「レオ、もっと私に触れて」

ヨルは彼の首筋にそっとキスを落とした。熱い息を残して、彼を甘く誘うように、微笑んで。他の思考をする余地もないくらい、彼だけを感じたくなったから。

レオは喉奥で小さく息を詰めた。首筋に残された湿った吐息と唇の感触、それだけで背筋に甘い火が灯る。

「……いいのか?」

レオはそっと、ヨルの頬に触れた。

やすりがけされた爪。丁寧に整えられた指先。それが彼女の肌をなぞるたびに、愛が滲んでいく。

彼女の腰に手を回し、優しく抱き寄せる。その身体の細さを確かめるように、柔らかな温度を感じながら彼女の背中をそっと撫でた。

唇を寄せて、彼女の肩にキスを落とす。柔らかく、慎重に。それでも、触れるたびに深くなっていく呼吸が、欲の存在を誤魔化せない。

「おまえが欲しい。全部――この手で、大切に、ちゃんと確かめさせてくれ」

その声音には、どこまでも愛しさと、そして決意が滲んでいた。

壊すんじゃない。傷つけるんじゃない。ただ、守るために、触れる。その想いを込めるように、レオはもう一度、彼女の額に唇を落とした。

「全部、レオのものだよ」

身体に増える熱に瞳を閉じながら、彼の手に全てを委ねて微笑んだ。口にしたのは紛れもない事実だったから。

「……きみだけのヨルでいたい」

レオの喉が、かすかに鳴った。
その一言は、彼の奥底に潜んでいた独占欲を静かに呼び覚ます。いつも理性で抑え込んでいた感情が、ヨルの甘い声に、微笑みに、言葉に――ゆっくりと、確実に、解き放たれていく。

「……幸せすぎて怖いくらいだ」

低く掠れた声。だがそこに宿るのは、狂おしいほどの愛しさ。

ヨルの細い肩に腕を回し、そっと引き寄せる。胸に抱きしめたまま彼女の耳元に口を寄せた。

「誰にも渡さない。絶対に」

頬にかかる髪を指先で払って、軽く唇を押し当てる。乱暴にはしない。けれど、そこに宿る想いは明確だった。――ヨルを、世界のどこにも行かせたくないという彼の根深い執着。

「俺のために、ここにいてくれ。優しくされたいなら優しくする。愛されたいなら、何度だって証明する」

彼の瞳がヨルを射抜くように真っ直ぐ向けられる。

「だから……俺だけに、こんな顔を見せて。俺だけに、こんな声を聞かせてくれ」

頬に落とされたキスは、静かで、深く、愛おしかった。ぴたりと重なる体温のなかで、レオの言葉は熱を帯びて、彼女の胸に染み込んでいく。

甘く漏れる呼吸のまま、彼女は幸福を噛んだ。傷つけてしまいたくなる感情を、彼自身が抱える感情で上塗りしてくれる。それが心地良かった。

「きみが望む限り……ね」

レオが手放そうとしない限り、ずっと。こうして互いに足りないものを埋めて、溢れるものは掬えばいい。

その答えに彼はそっと、彼女の髪を撫でた。細くて柔らかいその感触が、自分の呼吸をゆっくり整えてくれるようだった。

静かに目を伏せて、彼女の額に額を重ねる。鼓動が重なる距離、互いの温度が一つになる距離。

「……俺のそばで、全部見せてくれ」

そうすれば、どんな苦い毒だって甘い薬に変えてみせる。そう言うように、彼の指が優しく、しかし確かに彼女の背を抱いた。

レオの奥底にある執着と愛情の境界線が、今にも壊れそうなほど薄くなっていた。

ヨルは彼の首筋に手を滑らせた。感じる脈動がちゃんと自分だけのためのものだと思える、その感覚に目を細めた。

「……愛してる。どうしようもないくらい」

そしてレオを引き寄せて唇を重ねた。自分の感情を掬ってもらった分、彼の穴を埋めるように甘く流し込む。

レオは全てを預けるように、深く応えた。優しく、それでいてどこまでも熱く。触れ合う唇の温度が、彼の中にある焦がれるような渇きを静かに潤していく。

「……ヨル」

名前を呼ぶ声は、触れる唇の隙間から漏れた吐息と一緒に彼女の中へ溶けていった。

彼も同じように彼女の脈に指を添えた。首筋に触れる命のリズム。そのすべてを、感じきるようにそっと撫でながら。

「……おまえに触れてると、安心する。自分がちゃんと生きてるって、実感できる」

だからこそ、自分の存在も彼女のなかに確かに刻み込みたかった。脈打つ首筋に、自分の指先の熱を伝えながら、そっと言葉を続ける。

「誰にも触れさせない。誰にも、渡さない。……俺がおまえを守る」

ただの「所有」ではない。「共にある」ことへの執着。すべてを与えて、すべてを奪いたいという願い。

彼女の鼓動と、自分の鼓動が一つに重なるように。身体の奥まで、言葉にならない愛しさを届けるように。

指先でそっと撫でながら、その温もりを逃がさないように輪を描く。綺麗に整えられた爪先が、彼女の肌を傷つけることはない。ただ、確かに――彼女だけを抱いていた。