午後のリビングには穏やかな陽が差し込んでいた。外の風がカーテンを柔らかく揺らし、ソファに沈むレオの膝には開きかけの本。だが視線はページの先にある、キッチンの方へと自然と流れていた。
エプロンを身につけたヨルが、戸棚の中を覗き込みながら何かを取り出しては整理している。いつもより少しラフな服装で、首元から覗く鎖骨や、前屈みになるたび揺れる髪が、視線を惹きつけて離さなかった。
しばらくして、彼女がリビングへ戻ってくる。何か探している様子で、レオの視界の端でキョロキョロと動いていた。そして、椅子の背に手をかけたのを見て、レオは思わず声をかけた。
「……ヨル。椅子、何に使うつもりだ」
ゆっくりと本を閉じながら、穏やかながらもどこか警戒を孕んだ声色。彼女がまた何か無理をしようとしているのではと、思わず体が反応していた。
「戸棚の上が届かなくて。踏み台にしようかなって」
彼女は椅子を軽く持ち上げながら、レオの方を振り返る。使用頻度の低くなった調理器具を箱にまとめ、棚の奥に仕舞うつもりだった。
レオは静かに立ち上がると、無言のままヨルの元へ歩み寄った。椅子を持ち上げた彼女の華奢な手を一瞥してから、その背をすっと軽く押すようにして、彼女を椅子から遠ざける。
「俺がやるよ」
その声音にはわずかに呆れと、そして心配が滲んでいた。彼女の細い足で椅子に乗るなんて、思い浮かべただけで不安が募る。
レオは椅子を避けると彼女が先ほどまで居た戸棚の下に立った。そして、手元の箱を受け取って中身を確認する。
「これを仕舞えばいいのか?」
確認の一言を投げかけながら、片手で戸棚を開け、もう片方で器具の入った箱を軽々と持ち上げる。中を整理しながら、レオは箱を手前の方に軽く置いた。
「……ここでいいか?」
視線だけを落として、冷静な声で問う。
自然と横目にヨルの表情が入り込む。見上げてくるような位置から、何気ない顔で彼女は口を開いた。
「レオ、もっと奥まで入れて」
戸棚の手前で止まった箱と、その後ろから聞こえた無邪気な声。
「……っ……」
わずかに喉が鳴った。
何の気なしに告げられたその言葉が、唐突にレオの意識に突き刺さる。腕を伸ばしていた動きが僅かに止まり、彼女の顔を見返すわけにもいかず視線が泳いだ。
彼は静かに棚の奥に箱を滑らせる。けれど、無意識に呼吸が浅くなっているのに自分でも気づいていた。
「どうしたの?」
彼女の問いと共に、棚の奥に差し込んでいた箱の角がカツンと奥壁に当たる微かな音だけが、静かなキッチンに響く。
「……いや、なんでもない」
ぽつりと漏らしたのは、自分への言い訳だった。ヨルの方を振り返ることなく、まるで彼女の言葉が何かに触れてしまったことに気づかれないように。
「落ちると危ないから……あまり上に物置くなよ」
声のトーンは変えないまま、棚を静かに閉じる。けれど耳の奥では、あの言葉が何度も繰り返されていて。理性の鎧を何層も重ねてなだめている最中だった。
「ありがとう、レオ」
自分に背を向けてその場を離れようとする彼は確実に動揺していた。ヨルはその様子にほんの少し首を傾げたが、程なくして理由を悟る。
何気なく発した己の言葉を振り返り、僅かに口角が上がった。彼の頭に何が浮かんだのか、手に取るように分かる。彼の手を取って優しく引き留めると、ヨルは耳元に寄ってわざと吐息を混ぜた。
「もしかして、何か想像しちゃった……?」
レオの足が止まった。
耳元に落とされた囁きと吐息。いつもなら彼女が仕掛けてくる軽い悪戯として受け流せたかもしれない。だが、今回はタイミングが悪すぎた。あるいは、彼の頭が既に“その気”だっただけかもしれない。
「……してない」
振り返った顔にはわずかに赤みが差していた。否定の言葉は口を出たが、声音が追いついていない。視線はわずかに泳ぎ、彼女の笑みから逃げるように逸らされていた。
「……少し黙ってろ」
口調こそ低いが、そこに怒りはない。ただ、彼女を意識してしまった自分に対する苛立ちが滲んでいた。
顔を手で隠しながら、肩を少しすくめる。彼女に翻弄されるのは、もう慣れているはずだったのに。たった一言で、理性を揺らされていることが悔しかった。
「嘘つきだね……想像、したんでしょ?」
引き留めた方の手を自分の胸の上に引き寄せて、可愛らしく瞳を細めるヨル。
「……変態」
咎めるような意図はない。ただ赤くなった彼があまり可愛くて愛おしくて、揶揄うように微笑んでいた。
レオの喉が、ごくりと鳴った。
触れた手のひらに伝わる、柔らかな鼓動と体温。悪戯な笑みを浮かべた彼女の顔が、至近距離にある。そこから放たれる言葉は、どれも毒のように甘く、彼の箍を蝕んでいく。
「……おまえな」
低く押し殺したような声。レオは彼女の手からそっと抜けると、代わりにその頬を包むようにして顔を寄せた。触れ合う距離。真面目な視線で、彼女の瞳を覗き込む。
「そんな顔で、そんな声で、そんなこと言われて……」
唇をわずかに噛み、レオは目を伏せる。そのまま触れ続けていたら何かが外れてしまいそうで、ふっと息を飲んだ。
「……今すぐ押し倒さないだけ、褒めてくれてもいいくらいだ」
声音は真剣そのもので、でもどこか本気にしきれないほどに優しい。彼の瞳の奥にあるのは、怒りではなく、限界に近づいた切実な理性だった。
ヨルは自分の一言一言が、彼の感情を昂らせる様を見るのが心底楽しかった。いつもならこの辺りで引くのだが、今日はもう少し意地悪してみたくなっていた。
「こんな昼間から、やらしいこと考えるような悪い子なのに」
重なった額。そこから少し滑らせて彼の唇をゆっくりと奪う。彼が抑えた欲を増幅させ、自分だけを考えるよう執拗に。
「……褒めて欲しいの?」
離れた彼女の口から出た声はあまりに艶めかしい。レオの中で、何かが音を立てて崩れた。
「……おまえ、ほんとうに」
吐き出された声は、情欲と愛情がないまぜになって震えていた。抗うだけ無駄だと、彼自身が誰よりも理解していた。唇に残る甘い名残と、耳に残る囁き。そしてなにより、自分を試すように微笑むその瞳――。
レオは彼女の腰を片手で引き寄せ、もう片方の手は首裏へ滑らせた。そしてもう一度、唇を塞ぐ。今度は彼女からではなく、自分から。先ほどまでの静かな理性とは裏腹に、触れ方はあまりに熱を孕んでいた。
「褒めてくれなくていい。おまえが欲しい」
唇が離れた瞬間、彼は言った。囁くのではなく、しっかりと届く声で。彼女が挑発してきたなら、それに応えるのが彼なりの真っ直ぐな答えだった。
「もう引き返せないぞ、ヨル」
低く抑えた声が、彼女の名を甘く焦がす。包み込むように、そして逃さないように――彼の両腕は彼女を抱きしめていた。
ヨルは抱かれた胸の中から静かに彼の瞳を見上げた。ちゃんと自分だけを写してくれているか、確認するようにじっと。
「ねぇ、レオ……」
背中に回した腕に力を込めて抱きしめ返した。触れる彼の熱を感じて少し体が強張る。だが、それすら愉しむように、彼女は頬を緩ませていた。
「ちゃんとおねだりしてくれたら……夕食の時間まで、私の身体──きみにあげる」
それは提案のように見せかけた挑発。そして、自分に触れたいのならちゃんと言葉でねだってみて、という誘惑が込められていた。
レオは目を細めた。
「……ずいぶん余裕だな」
その声には微かに笑みが滲む。けれどその奥で煮え立っている熱は、もう隠すつもりもなかった。腕の中で息を潜めながら揺れる彼女の体温と、その挑戦的な言葉――すべてが彼の理性を溶かしにかかっている。
彼は彼女の頬にそっと手を添え、わざとゆっくりと、焦らすように唇を近づけていく。息が混ざり合い、肌の距離がゼロになる寸前。そこで囁いた。
「おねがいだ、ヨル。……おまえの身体に、触れさせてくれ」
低く掠れた声で、けれどどこまでも真摯に。彼女の望んだとおり、きちんと言葉にして懇願する。自分のものだと分かっていながら、あえて乞うことでしか手に入らない甘い支配を、彼は理解していた。
「──いいだろ?」
その一言で、彼はヨルの唇を、まるで許可をもらったかのように深く奪った。そして、彼女の背に添えていた手が、ゆっくりと、だが確実に輪郭をなぞるように動き始める。まるで、言葉だけじゃ足りないと伝えるかのように。
絡む甘さに息を詰めるヨル。
「……っ……レオ、まだ……」
言葉を返す前に塞がれる呼吸に、思考が止まった。白く塗りつぶされていく中での抵抗など、全くの無意味だった。彼に触れられるたびに広がる感覚。それに抗えず、ヨルから段々と力が抜けていく。
「……きみが返事を待てないなんて、珍しいね……」
呼吸のために唇が離れた一瞬、乱れた息を僅かに整えながら言葉を漏らした。レオに預けた身体と自分を支えるためにシンクの縁に添わせた手。普段より熱い感覚に、彼女は高揚していた。
レオはヨルの言葉に、唇の端をわずかに吊り上げた。
「返事なんて、もう要らないだろ」
囁くようなその声には、抑えてきた欲が色濃く滲んでいる。目の前の彼女がどれだけ自分を挑発して、どれだけ甘く仕掛けてきたか、本人が一番わかっているはずだ。今さら口約束を求める余裕など、彼には残されていない。
「……おまえが悪い」
シンクに添えられた彼女の手に触れると、包み込むように自分へ巻きつけさせる。まるで逃げ場を封じるように。けれど、その触れ方はどこまでも優しく、大切にするように丁寧だった。
「さっきの声、すごく色っぽかった」
耳元で囁く低音に、熱がまたひとつ加わっていく。頬を寄せながら、彼女の項に指先で触れると、脈打つ鼓動が伝わってきた。
「全部、俺に聴かせてくれ。隠さないで」
彼の甘さの中に混ざるのは、支配ではなく献身。ヨルは耳元に響く声に、無意識に反応してしまう自分の身体へと眉を寄せた。
「……いいよ、」
そして彼に応えるように、近づいた彼の首筋にキスを落とす。耳に伝わる、彼の僅かな呼吸の乱れに満足げに微笑むと追撃を用意した。
「きみのためだけに……鳴いてあげる」
レオはその言葉に、堪えていた最後の糸が焼き切れたのを感じた。耳元に伝う吐息、首筋に触れた唇の温度、そして甘く囁かれたその一言――すべてが彼の感情を煽ってくる。
「……楽しみだな」
低く囁いた声は、微かに震えていた。それは欲望に飲まれそうになりながらも、彼女を大切にしたいという思いが拮抗している証。だが次の瞬間、彼の動きに迷いはなかった。
ヨルの髪に指を絡めながら、ゆっくりと顔を寄せ、再び深く唇を重ねた。今度は余裕など一切なかった。ただ、彼女の声も表情も温度も奪うように、少し強引な貪るような口づけ。
キスの合間、触れる指先が彼女の肌をなぞる。布から滑り込み感じる温度に、互いの境界線がゆっくりと融けていく。
「誰にも聞かせない。全部、俺のものだ」
囁くようなその言葉の奥には、執着と独占欲と、限界を越えた甘さが滲んでいた。彼の手が滑らかに肌の上をなぞり、ヨルが自分のものであることを何度も確かめるように触れ続ける。
甘やかな空間の中で、レオの愛情は止めどなく溢れ、欲も優しさも全てが混ざって、穏やかな午後は二人を確かにひとつにしていった。
