夜更けの静寂が、部屋を満たしていた。
カーテンの隙間からは薄い月の光が差し込み、壁の時計の針が静かに、規則正しく動いている。

ベッドの上、レオは深い眠りの中にいた。
シーツに沈んだ身体からは緊張の気配もなく、眉間の皺もいつになくゆるんでいた。
彼にとって「隣にヨルがいる時間」は、それだけで安らぎそのものだった。

だが――

ふと、呼吸のリズムが乱れる。

肌に感じる温度が、変わっていた。
ついさっきまで確かに感じていた、腕のぬくもり。
その存在が、今はない。

レオは目を開ける。
瞳孔が光に慣れるまでに、ほんの数秒かかった。
そしてすぐに――その異変に、気づいた。

「……ヨル?」

ベッドの隣。
シーツは温もりを残したまま沈んでいるが、彼女の姿はなかった。

その瞬間、胸がどくりと跳ねた。
喉の奥が焼けつくように乾く。
何も考えず、ただ上体を起こして、目の前の現実を探そうとした。

「……ヨル」

もう一度名を呼ぶ。けれど返事はない。
室内はしんとしていて、テレビのスタンバイランプが赤く光っているだけ。
空気は静かで、どこまでも冷たい。

まるで悪い夢でも見ているようだった。
胸の奥で、嫌な音がした。
頭では「大丈夫」と分かっていても、体は先に動いてしまう。

ベッドから降りて、足音を立てないようにゆっくり歩く。ドア、洗面所、キッチン。どこにも彼女の姿はない。

過去の光景が、脳裏にうっすらと浮かぶ。
誰もいない部屋。置き去りの自分。
“いなくなるかもしれない”という記憶が、喉元にまでせり上がってくる。

――そのときだった。

ふと、カーテンの隙間から月明かりに照らされた何かが目に入る。
ベランダ。
外気を受けて、揺れる黒髪。
夜の静寂に溶けるように、そこに佇む後ろ姿。

「……ヨル」

声と同時に、心臓が高鳴る。
扉に手をかけて、ゆっくりと開ける。
冷たい夜風が、室内とレオの心を同時に撫でた。

扉の向こう。
振り返るヨルの姿が、そこにあった。

その顔を見た瞬間、レオはほんの少しだけ膝が緩む。
どれだけ彼女の存在が、今の自分のすべてになっているか――痛いほど、実感する。

「……なにしてるんだ。こんな時間に……」

声は低く、わずかにかすれていた。
叱るつもりなんてなかった。ただ、“ここにいた”という事実に胸を撫で下ろしていた。

「……レオ?」

突然かかる声に驚いて見開いた瞳。その先には酷く狼狽したレオが立っていた。

「どうしたの、そんな顔して……」

外気で冷えた指先でレオの頬に触れる。揺れる彼の瞳を覗き込んで、落ち着けるように優しく撫でた。

「目が覚めたから、少し夜風に当たっていただけだよ」

レオはその言葉に小さく息を詰めた。
少し夜風に当たっていただけ、たったそれだけのこと。なのに、自分はまるで子供のように取り乱していた。

けれど、理屈じゃなかった。
“そこにいない”という事実が、ただ恐ろしくてたまらなかった。

「……そうか」

声を絞り出すように言ってから、レオはそっとヨルの手を取った。冷えた指先。けれどそれは確かに、ここに“在る”温もりだった。

「……ごめん」

ほんのわずかに身をかがめて、彼女の額に自分の額を重ねる。そして静かに目を閉じた。

「……いなくなったのかと思った」

囁くような声。
それはまるで、どこか壊れかけた何かをつなぎとめるかのようにか細くて、必死で。普段の彼からは想像できないほど、正直な弱さをにじませていた。

腕が、自然とヨルの腰を引き寄せる。
もう、触れていないと息ができないほどに。月明かりの下、レオは確かに彼女を抱きしめていた。

「いなくならないよ」

そんな様子に少し安心したように息を吐くと、ヨルは抱き寄せられたまま彼の背中に腕を回した。そして優しくトントンとあやすように叩いて、自分の存在を彼に伝える。

「大丈夫だよ、レオ」

冷たい空気で僅かに息が白くなる。それでも触れている事実が心を温めていた。

「不安にさせてごめんね」

レオはその声に、深く、ゆっくりと呼吸を整えた。ヨルの手が背を撫でるたびに、胸に絡みついていた棘が少しずつほどけていく。

「……謝るな」

ぽつりと呟きながら、レオはそっと頭を傾けて、ヨルの肩口に額を預ける。
まるで逃げ場のない幼子のように、彼女という存在にすがるように。

「勝手に怖くなったのは……俺のほうだ」

風が髪を揺らす。
ヨルの香りが微かに鼻先をかすめる。

「おまえが、どこにも行かないって言ってくれるなら……それだけで、いい」

言葉にすると、ほんの少しだけ胸の痛みが和らいだ。ヨルの声、体温、鼓動――すべてが現実だと、今の彼に教えてくれている。

「なあ……ヨル」

肩に預けたまま、息を吐きながらつぶやく。
夜風に揺れる髪が、鼻先をかすめる。

「一緒に、戻ろう。ベッド、寒いままだ」

もう二度と、自分の隣が空席になるのを見たくない。
だから、手を繋いで戻りたい。ちゃんと隣にいてくれるって、体温で確かめながら眠りにつきたい。

レオは顔を上げて、ヨルの瞳を見つめる。
凍る夜の中で、唯一の灯のようにあたたかく光るその瞳を。

「うん」

可愛くも酷く切実な彼の願いに、ほんの少し笑みを溢して頷いた。繋いだ手の温もりを離さないように指を絡める。

その瞬間、頬に何か冷たい感触が当たり、ヨルはゆっくりと夜空を見上げた。

「レオ……」

彼の名を呼ぶ声はどこか嬉しそうだった。目の前にひらひらと舞う白い光が視界に入ったから。それは今年初めて降る、冬を知らせる雪。風の少ない静かな夜に二人を包むようにそれは降っていた。

「……雪」

レオは、ヨルの声に導かれるように空を見上げた。
暗い空に、ひとつ、またひとつ――白い小さな結晶が舞い降りてくる。

「……初雪、だな」

吐く息が白く滲む。
けれど、寒さは気にならなかった。
ヨルの手が、自分の手の中にある。それだけで、世界はあたたかく感じられる。

雪は音を立てずに降る。
静かで、穏やかで、優しい。今この瞬間のためにだけ、誰かが用意したみたいな時間だった。

レオはそっとヨルの指に口づける。
凍えるはずの指先が、彼女の体温でほんのりとぬくもっていた。

「……綺麗だな。雪も、おまえも」

不器用な褒め言葉だったけれど、それがレオの精一杯の甘さだった。
その言葉に照れたように微笑むヨルを見て、レオは心の底から安心を得た。

この夜も、雪も、君も、全部――失わずに済んだ。

繋いだ手をそっと胸の前に引き寄せながら、彼は小さく呟いた。

「……ありがとう。ここにいてくれて」

それは感謝でもあり、愛の告白でもあった。

ヨルは目の前に広がるロマンチックな情景と、彼の柔らかい言葉に頬を緩ませた。何も言葉は返さず、少し背伸びをして彼に口付ける。共にある時間の幸せを共有するように、そっと触れるだけ。

「……身体、冷えちゃった」

彼の手を引いてベランダのサッシを踏み越える。そして彼と視線を交えると瞳を細くして、少し抑えた声で続けた。

「レオ、私のこと温めてくれる?」

レオはその問いかけに、僅かに瞳を見開いた。
でもすぐに、柔らかく目を細める。
まるで胸の奥から温かさが湧き上がってくるような、そんな笑みだった。

「……ああ」

低く、でも優しく響いた声は、
寒さも不安も全部包んで溶かしてしまうような熱を帯びていた。

足元からそっとヨルを抱き上げるようにして、彼女をベッドへと導く。
まるで壊れ物を扱うような繊細な仕草で、けれど腕の中はどこまでも強く、離す気配は微塵もない。

ベッドの上。
掛け布団をめくり、ヨルを静かに寝かせたあと、レオもすぐ傍に横になる。
ぴたりと寄り添い、腕を彼女の背に回し、もう片方の手で頬に触れる。

「冷えてるな……」

その囁きと共に、レオの唇がヨルの額に触れた。
そこから、頬、こめかみ、耳、首筋へ。確かめるように、丁寧に、彼女をなぞっていく。

「俺が……おまえの全部、あたためるから」

囁く声が震えるほどの真剣さを帯びていたのは、
ただの甘さじゃなかった。「守りたい」という、彼の決意そのものだった。

このぬくもりがあれば、もう恐れるものは何もない。

レオは静かに目を閉じて、彼女を胸元に引き寄せた。ぴたりと重なった体温に、深く安堵する。

ただ静かに、深く、確かに――幸せが降り積もっていく夜だった。