昼下がりのリビング。
カーテン越しの陽光が、柔らかくソファに降り注いでいる。
テレビはついているけど音量は小さく、ソファの前に置かれたマグカップからは、ほんのりミルクティーの香りが立ち上っていた。

レオは、ソファの片隅にもたれかかるようにして座っていた。
長い脚を投げ出し、手には開きかけの小説。けれどその指はページをめくることもなく、だらんと膝の上で止まっていた。

彼の呼吸は深く、ゆっくりと一定に落ち着いている。数分前までは「眠くない」とぼやいていたのに、今では完全に意識を手放しているようだった。

ヨルが淹れてくれた紅茶にも、一口しか口をつけていない。

額には前髪がかかり、時折その下の睫毛が小さく揺れる。
普段の張り詰めた表情とは違う、無防備で静かな寝顔。レオがこんなふうに気を抜いて眠れるのは、きっと彼女の前でだけだろう。

ヨルは少し離れたところから、そんなレオ静かに見つめていた。幸せそうなため息をひとつ溢して、彼の隣まで移動すると静かにその表情を覗き込む。

「……レオ」

起こしたいわけじゃない。ただその名前を口にしたかっただけ。

気持ちよさそうに眠っている彼を見て、白雪姫の童話を思い出し、ヨルは僅かに口角を上げた。少しだけ身を乗り出すと、軽くレオと唇を重ねる

ぴたり、とレオの身体が微かに反応した。
けれど目は覚まさず、ただ深く息を吐いていた。

ヨルはくすっと笑った。
まるで「キスで王子様を起こす姫」そのものだった自分に、ちょっとした悪戯心と、愛しさが混じっている。

「レオ……起きて」

囁くように言って、もう一度そっとキスを落とす。今度はさっきよりも、少しだけ長く、優しく。

指先がソファの縁をなぞる音に混じって、耳元に届くのは甘やかな声と、唇の柔らかな感触。
レオはゆっくりと、けれどはっきりと意識を引き戻されていた。

目を開ける前から、誰が自分に触れているのかは分かっていた。
この香り、この熱、この気配。
どれひとつとして、間違えようがない。

「……ヨル」

低く、掠れた声。
まだ完全に目覚めきっていないそれは、どこか夢の続きを話すようだった。

重たい瞼をようやく持ち上げ、視界に映ったのはすぐそばにいるヨル。
微笑む彼女の顔を見た途端、レオの目元がゆるんだ。

「……夢かと思った」

うっすらと笑いながら、レオは指先で彼女の髪をそっとすくった。
頬にかかる柔らかな黒髪を耳にかけるように撫で、触れたまま、言葉を続ける。

「……もう少し寝ててもよかったんだけどな」

その声には、ほんの少しだけ、くすぐったそうな照れが混じっていた。
眠りの縁から優しく引き戻されたことが、思った以上に嬉しくて。それを隠すために、彼はゆっくりとヨルの頬にキスを落とす。

「でも……悪くない目覚ましだった」

彼の唇が触れたのはほんの一瞬。
それでもそこに込められた気持ちは、彼なりの全てだった。

「……おはよう、王子様」

ヨルは頬に残る彼の熱に目を細めながら、少し悪戯っぽく微笑んだ。

「あんまり綺麗な顔で寝てるから、我慢できなくて」

レオは小さく目を伏せて、苦笑にも似た息を漏らす。寝起きでまだぼんやりとした頭に、彼女の言葉がふわりと入り込んでくる。

「……まったく。そんな甘いことを、眠ってる間にされたら……」

起き抜けの手でそっと彼女の指を取ると、まるで拗ねた子供のようにその手の甲に唇を押し当てた。

「……もう、安心して眠れなくなるだろう」

そう言いながらも、声に刺はなかった。
むしろその表情には、どこか“誇らしげ”な色が滲んでいる。

ヨルにそう言わせた自分が嬉しくて仕方ない――そんなふうに。

「俺の寝顔なんて、見る価値あるのか?」

少し悪戯めいた瞳で、ヨルの返事を待つ。
この甘い午後が、ずっと続いてくれることを願いながら。

「あるよ。ずっと見ていたいくらい」

ヨルはもう一度彼に身を寄せると唇を重ねた。頬や手の甲ではなくここにして、と言うように視線を這わせながら。

「……どんなきみも好き」

甘ったるい声でキスの合間に漏らした彼女の言葉は、ミルクティーの香りと共に溶けていく。

レオの喉が、小さく鳴る。
その言葉の一つひとつが、胸の奥にじんわりと染み込んでくる。ヨルの体温、声の甘さ、まなざし。その全部が、彼の中の理性を優しく溶かしていくようだった。

「……おまえってやつは、」

呟いた声には、呆れと照れと、それから――確かな幸福が滲んでいた。
こんなにも惜しみなく愛を注がれて、受け取ってしまったら、もう逃げ場なんてどこにもない。

「何も考えられなくなるくらい、甘いことを言うなよ……」

レオはヨルの背に腕を回し、やや力を込めて引き寄せた。
そのまま、再び唇を重ねる。何かを伝えるように、確かめるように。ぬくもりを交換しながら、静かに囁いた。

「俺も、どんなおまえでも……好きだよ」

それは、いつものように噛みしめるような硬い言葉じゃなかった。
ただ、自然に零れた。彼女の甘い告白に、そのまま応えるように。

彼の額がヨルの額に触れる。
近すぎて、息も混ざる距離。そのままそっと目を閉じて、彼はもう一度、優しく口づけた。

触れている唇、見つめ返す瞳、指先の体温。
全部がレオに、「生きている」と実感させる。
彼にとって、たった今この瞬間が、何よりの救いだった。

絡み合う熱に僅かにヨルの声が漏れた。離れる距離に顔を赤くすると、視線を逸らして頬を緩ませるヨル。

「……レオ」

その名前を口にすると、ヨルは身体を預けてレオを優しく抱きしめた。どんなに触れてもまだ足りないと言うように、少しでも長く触れられるように。

名前を呼ばれた瞬間、レオの胸の奥に静かな鼓動が打ち鳴らされる。彼女が自分の名を呼ぶ、その声の響きが、何より愛しかった。

「……ヨル」

呼ばれたのと同じ声で、今度はレオが彼女の名をそっと呼ぶ。その声音には、優しさと、微かな戸惑いと、そしてどうしようもないほどの愛しさがにじんでいた。

細い肩、しなやかな背中、胸元に感じる鼓動――全部が彼の中に染み込んで、「今、この手にあるものを絶対に離さない」と誓わせるようだった。

腕の中で甘えるように寄り添うヨルの髪に、そっと口づける。

「こんな午後が、ずっと続けばいい」

ぽつりと漏らしたその一言は、子供のように素直な願いだった。
彼女がここにいる。
誰にも奪われず、何も壊れない、たったひとつの場所。

レオは視線を落とし、優しく彼女の髪を梳いた。まるでそのしなやかさを記憶に刻みつけるように。

「ねぇ、レオ。きみは……今、幸せ?」

レオの耳元に届く、少し不安げな声。
ヨルはただ、彼の口からその言葉を聞きたかった。この静かな午後が、“確かなもの”として胸に残るようにしたかった。

レオは、その問いにすぐには答えなかった。
ゆっくりと瞳を開けて、腕の中のヨルを見つめる。
頬にかかる髪、少しだけ揺れるまつ毛――
あの強くて繊細な瞳が、自分を見上げている。

“幸せ”

何度も自分に問いかけてきた言葉だった。
だけど、こうしてヨルから尋ねられると、答えは自然と、深く、胸の奥から湧き上がってくる。

「……ああ。幸せだよ」

言葉にすると、どこか照れくさくて、思わず視線を外しそうになった。
でも、それじゃダメだと分かっている。
だからもう一度、しっかりと彼女の目を見て、ゆっくりと息を吸い込んだ。

「おまえがそばにいて、笑ってくれる。
それだけで、俺は……この先、何もいらないって思えるくらいには、幸せなんだ」

その声は、静かに、でも確かに彼女の胸を打つように響いた。

「だから、心配するな。今だけじゃない。……これからも、ずっとそう思えるように……俺がそうしてみせる」

そう言って、彼はそっとヨルの指に自分の指を絡めた。確かな温もりを、これからもずっと離さないように。

ヨルはその答えに嬉しそうに笑った。そして、そのまま絡められた指を引き寄せて、少し強引に唇を重ねた。触れていないと呼吸ができないとでもいうように。

「……出会ったのがきみで良かった」

何度もした後悔を塗りつぶすような幸福。何度も甘く重たく重ねて、漏れる声や息まで全部自分のものにしたいと絡め続ける。

レオは、触れられた唇に一瞬驚きながらも、すぐに全てを受け入れるように目を閉じた。
彼女の温度、息づかい、滲む想い――全部が、抗いようのない幸福として胸に押し寄せてくる。

「……ヨル」

深く重なった口づけの合間、かすれた声で彼女の名を呼ぶ。

ヨルの言葉が、胸の奥に染みて離れない。
“出会ったのがきみで良かった”

その一言で、彼は報われた気がした。
過去も、後悔も、全てが報われるほどの、たったひとつの幸福。

「俺も……おまえで良かった」

重なる唇のすき間から、静かに漏れた言葉。
まるで自分に言い聞かせるように、でも間違いのない確信を込めて。

レオは絡めた指をほどかず、そっと反対の腕で彼女を引き寄せた。触れていないと不安になるのは、自分も同じだと伝えるように。
まるで、互いの輪郭を確かめ合うように、ぴたりと心音が重なった。

午後の日差しが、ふたりの影をひとつに溶かしていく。世界は何も変わらないまま、それでもふたりの幸福だけが確かにそこにあった。