鍵の回る音が、静かな部屋に響く。

室内には灯りがひとつ、
ダイニングの上だけがぼんやりと照らされていた。
ヨルの姿は見えない。けれど、気配は確かにそこにあった。

扉を閉め、鍵をかける。
コートを脱ぎ、靴を揃えた音が、まるで自分の心音のようにゆっくりと響いた。

「……ただいま」

低く、静かに、いつも通りの声。

けれどその声の奥に潜む感情を、
この家にいる“彼女”だけはきっと見逃さない。

「おかえり、レオ」

ヨルの声は普段通りだった。午前中に取り調べを終えて帰宅してからは、何も変わらないいつもの日常を過ごしていた。

何かに気づいている彼の様子を感じながらも、彼女は変わらぬまま、整えた夕食でレオを出迎えてくれている。

レオはヨルの声に小さく頷きながら、リビングの灯りを見上げた。

食卓に並んだ皿のひとつひとつが、いつも通りだった。温かい味噌汁、柔らかそうな卵焼き、炊きたての白米に、丁寧に焼かれた魚。

すべてが変わらないのに、すべてが“少しだけ”静かだった。

「……取り調べの内容は、聞いた」

椅子を引く音が小さく鳴る。

箸を持つことなく、視線だけをテーブルに落としたまま、レオはそう口にした。声に感情はなかった。けれど、どこかひどく慎重で、ひどく優しい。

「酔って階段を踏み外したんだろ」

少しだけ間を置いて、レオはヨルに目を向けた。

「……偶然だな。おまえが、その夜に会っていたのが“その男”だったなんて」

それでも、責めるような言い方ではなかった。ただ、“知っている”ということを告げるための言葉。彼は答えを求めているのではない。ただ、彼女の本音だけを、今、この空気の中に探していた。

ヨルは、湯気が上がる箸をつけられない夕食にほんの少し視線を落とした。

「そうだね、凄い偶然……」

隠すつもりだったが、彼ならきっと気がついてしまうと分かっていた。だが、それでも表面上はあくまでただの“偶然”を装い続ける。

レオはしばらく何も言わなかった。
ただ静かに、ヨルの顔を見ていた。

まっすぐに、何も逸らさずに。

そして、ほんのわずかに口元を動かした。

「そいつと、俺の話をしてたんだろ」

視線を下げたまま、呟くように言葉を重ねる。その声音には明らかな違和感と、かすかな痛みが滲んでいた。

「俺のことを好意的に語るような人間だったか、なんて──聞くまでもないよな」

ゆっくりとヨルの方を向く。表情は崩れていない。だがその瞳は、苦しげに、静かに彼女の内側を見ていた。

「……何があった?」

声は優しかった。問いかけではなく、告白を促すように。すべてを見通しているようでいて、彼女が自分の言葉で語るのを、ただ待っていた。

「……私が知らない、きみのことを聞いていたの」

ヨルは少し微笑むと、施設で見せてもらった写真に写っていた、幼い頃のレオの姿を思い浮かべる。

「きみが人のために動ける、強くて優しい子だったって」

彼を見る眼差しは優しくて、全てが本当に偶然によってもたらされた物だと認識してしまいそうになる。だが、彼女はレオが望むならと、その笑みを消した。

「……そしてあの人が、きみを苦しめたんだって」

レオは一瞬だけ目を伏せた。ヨルの言葉は、どれも彼の内側に静かに落ちていく。過去を暴かれたわけでも、非難されたわけでもない。それなのに、どうしようもなく胸が軋んだ。

「……あんな奴の言葉で、おまえが何かを判断するはずないって……信じてたよ」

低く呟いたその声は、まるで自分に言い聞かせるようだった。

拳を握り込んだ指先に力がこもる。
彼女が事実を知っているということ。それが“偶然”によるものだと、頭では理解しても、心が追いつかない。

「……なぁ、ヨル」

レオは、まっすぐに彼女を見つめる。痛みも、怒りも、疑いも、その瞳の奥にはなかった。ただ、ひとつだけ──

「俺のために、何か……したんじゃないか?」

苦しさの滲む問い。信じているからこそ、怖かった。信じているからこそ、聞かなければならなかった。

「……何か?」

ヨルは表情を消したまま、彼の問いを返した。彼の"正しさ"を守るため、ただ静かに。

レオはしばらくその言葉の意味を咀嚼するように、ヨルの顔を見つめ続けていた。感情が消された彼女の眼差しは、美しくて、残酷なほどに静かだった。

「……そうか」

その声には怒りも疑いもなかった。ただ、諦念にも似た、深い理解と愛情が滲んでいた。

「おまえが何かをしたって、誰も証明できない。……でも、俺だけは、気づいてしまうんだ」

拳を膝の上で握りしめながら、静かに息を吐いた。それは、心の奥で苦しんでいることが伝わる声音だった。ヨルの優しさがどれだけ深くても、その優しさが彼の正義を汚していく気がして。

「……全部話せなんて言わない。ただ……」

その視線が、揺れた。

「せめて、俺が……おまえの罪を、知らないふりをする許可くらいは、くれよ」

レオの中の何かが、静かに軋んでいた。

ヨルは椅子から静かに立ち上がるとレオの前に立った。彼の両頬に手を添え、今にも泣いてしまいそうな彼を前に、僅かに表情を緩める。

「ごめん、レオ」

それは彼の最悪の想像を肯定して、己の罪を認める謝罪だった。

「……でも、きみのためじゃない、……きみのせいじゃない」

添えた手の親指でゆっくりと優しく撫でる。

「きみが汚されること、きみが傷つけられること、きみが苦しめられること。……私がそれを許せなかったの」

それが過去であれ、未来であれ、彼女にとって見逃せる物ではなかった。

レオの瞳が、音もなく揺れた。

「……ヨル」

その名を呼ぶ声は、かすれていた。

頬に添えられた手の温もりが、優しくて、残酷だった。彼女の中にある“愛”が、どれだけ歪んでいても──それが紛れもなく、自分のために動いていたものだという事実が、胸を締めつける。

「……俺は、おまえを止めなきゃいけなかったんだろうな」

ゆっくりと瞼を閉じて、そこに触れてくる彼女の指の感触を、深く染み込ませるように受け入れる。

「でも、止められなかった。今だって、やっぱり……おまえを拒絶できない」

再び目を開けて、目の前にいる唯一無二の人を見つめた。

「こんなふうに愛されて、……おまえが他人を殺してまで俺を守って、それを知ってもまだ、俺は……」

息を詰めたように黙り、そして小さく笑った。

「……もう、どうしようもないくらい、愛してるんだよ」

ヨルの手に自分の手を重ねて、そっと額を彼女の額に触れさせた。

「俺のせいに、してくれて構わない。おまえの手を染めたのは、俺だと思えばいい」

その声は、苦しげで、そして限りなく優しかった。

「きみはきっとそう思ってしまうから、全部隠しておきたかったのに」

ヨルはほんの少し笑い声を漏らすと、控えめに彼を抱き寄せた。この結末をどこか予想していたかのように。

「拒絶されるより、ずっと苦しいね」

彼が守ってきたものを歪めてまで、自分の形を受け入れさせた事実に苦い息を吐く。

「私が我慢できなかったせいで、きみにこんな思いをさせて、……ごめんね」

レオは、抱き寄せられたその腕の中で、ただ静かに彼女を受け止めた。

「……違う」

低く、かすれた声で、ぽつりとこぼす。

「おまえが俺を、誰よりも大切に想ってくれたから、……俺は、嬉しくてたまらなかった」

頬を寄せ、そっとヨルの耳元に顔を滑らせて、掠れるような声で囁く。

「本当は……おまえが、俺のために何かを壊してしまうところを、どこかで、望んでたのかもしれない」

胸の奥に沈んでいた、自分でも触れたくなかった感情を絞り出すように言葉にする。

「おまえが俺のものなら、俺もおまえのものでいたかった。……同じくらい、狂っていたかったんだ」

言葉のすべては苦しくて、どこか救いようのない愛の形だった。

「だから……俺はもう、何も否定しない。たとえ、おまえがまた誰かを手にかけても……それでも、おまえがいい」

喉奥で震えるような声。理性と正義の境界を超えて、それでもなお隣にいたいと願ってしまう弱さを、レオはもう否定しなかった。

「おまえじゃなきゃ、だめなんだよ。ヨル」

その言葉にヨルの瞳からは涙が溢れた。ゆっくりと頬を伝うその雫は、段々と熱を失い冷たくなる。

「ねえ、レオ」

ヨルはその名を呼びながら、彼からそっと身体を離した。そして手が触れないように、さらに一歩後ろに下がる。

「私達……離れた方がいいのかな」

彼女には苦しげな笑顔が浮かんでいた。どんなことをしても受け入れてくれる彼の姿に悦びを感じると共に、互いの限界が見えたから。

「このままじゃ、本当にきみを壊してしまう」

レオは立ち尽くしたまま、ヨルのその言葉を受け止めた。

「……ヨル」

静かに、ゆっくりと彼女の名を呼ぶその声には、怒りも否定もなかった。ただ、深く深く染みついた、喪失への恐怖が滲んでいた。

「今さら、離れるなんて言葉を出すくらいなら……最初から近づかないでほしかった」

低く落ちるその声音には、普段の冷静さも理性もなかった。

「おまえが俺を壊すって言うけど……俺は、最初から壊れてたんだよ」

目を伏せると、強張った喉仏が上下する。

「おまえと出会って、やっと人間らしくなれた気がした。欲を持って、守りたいって思って、……生きていたいと思った」

そこに差し出されたのは、ただの想いじゃない。命に等しい、本質そのものだった。

「おまえが俺から離れたら、またあの頃の俺に戻るだけだ。何も求めず、誰も信じず、ただ死なないように息をするだけの人間に」

ゆっくりと、静かに一歩を踏み出す。
彼女が下がったその距離を、取り戻すように。

「……それでも離れるって言うなら、ちゃんと俺を殺してからにしてくれよ」

口角が微かに上がった。けれど、それは笑顔ではない。哀しみと執着の果てにある、限界の愛情のかたちだった。

「おまえがいない世界なんて、もう歩けないんだよ。俺は」

一度流れ出た涙は止めどなかった。

「……レオ」

ヨルは詰められた分、後ろに下がる。

「私は間違えてる。そしてそれを受け入れたらきみも間違えてしまう」

完璧な犯行だった。彼女は、自分のしたことを本当に間違った選択だとは思っていない。ただ、それを彼に受け入れさせてしまったことを今、酷く後悔していた。

「強くて、優しくて、正しいきみが好きだから。私はこれ以上……レオを汚したくない」

それはずっと抱えてきた矛盾。彼を壊して、殺して、奪ってしまいたいと願いながら、彼には幸せに笑っていて欲しいと思っていた。

レオの胸が、小さく震えた。

目の前のヨルの涙は、ただの懺悔なんかじゃない。言葉にならないほどの痛みと矛盾を抱えた、彼女なりの“愛”のかたちだった。

それでも、彼は一歩も引かなかった。

「……俺が好きなのは、“おまえそのもの”なんだ」

言葉が震える。
押し殺していた感情が、張り詰めた沈黙の隙間から滲み出ていく。

「間違ってるかどうかなんて、そんなの後から他人が勝手に決めることだろ」

拳を握り、声を絞るように吐き出す。

「おまえが誰かを傷つけたとして、それで俺の中のおまえの価値が変わると思うのか? ……おまえの痛みや怒り、全部を愛してるんだよ、俺は」

そうしてもう一歩だけ近づく。

「ずっと前から覚悟してた。おまえの愛が俺を壊すなら、それでも構わないって、あの日から決めてた」

あの日──ヨルが自分にすべてをさらけ出した、あの夜から。

「俺が正しくあるために、おまえを失うくらいなら……そんな正しさ、いらないよ」

レオはまっすぐに彼女を見た。迷いも、逃げ道も残さず、ただその瞳に答えを刻み込むように。

「一緒に地獄に落ちるって決めたんだろ、ヨル」

その言葉には、抗いようのない熱と静かな決意が宿っていた。

「……俺を置いていくな」

自分勝手だと分かっている。勝手に歪めて、勝手に壊して、後からそんなつもりじゃなかったなんて。でも、彼女にはそれしか言えなかった。

「……レオ」

彼のことを思うと止められなかった自分の思考と、実際にとってしまった行動。この先も、それら全てを彼に受け入れさせてしまうと考えるとどうしようもなく怖かった。

「もう、」

彼が自分を拒絶することはない。だから、言わなければいけないと思った。

「……終わりにしよう」

レオの喉が、ごくりと音を立てて動いた。

言葉の意味を、頭では理解していた。
ヨルは、自分を傷つけないために、自分を壊させないために、“終わらせよう”としている。

だが心が、それを拒絶していた。

「ふざけるな」

低く、落ち着いた声だった。
怒鳴り声でも、取り乱したような声でもない。ただ──凍えるような静けさのなかで、確かに熱を孕んでいた。

「……終わりにするのは、おまえが“俺を守りたい”って言う時じゃない」

近づく。もう、手を伸ばせば届く距離に。

「自分が何をしたか分かってるなら、なおさら俺の隣にいろ。逃げるな、ヨル」

もう一歩。
ヨルの涙の温度も、震える指先も、レオの心臓の鼓動も、何もかもが互いに干渉する距離。

「俺をこんな風にしたのはおまえなんだ、ヨル」

胸元の奥、張り裂けそうに軋む想いを、ひとつに絞ってぶつける。

「俺はおまえのこと、もうどうにもならないくらい好きなんだよ」

言葉が、呼吸よりも熱を持って溢れ出す。

「俺が生きてる限り、おまえを手放すなんてできるわけがない……おまえの全部を見て、それでも愛してるって言っているんだ」

沈黙が落ちる。ほんの一瞬の、世界に音がない空白。

「だから……“終わりにしよう”なんて、二度と言うな」

感情が滲んだ声。今にも壊れそうな理性が、ぎりぎりのところで繋がっている。

「終わらせるなら、おまえが俺を殺すしかない」

その瞳は、どこまでも真剣だった。冗談ではない。本気でそう言っている。

「おまえのその言葉で俺の全部を壊した責任も、ちゃんと……背負ってくれよ」

それは、愛の告白であり、呪いのようでもあった。

「俺を救うふりして置いていくなんて……おまえらしくないよ、ヨル」

ヨルはその場で静かに座り込んだ。彼が発する言葉全てを飲み込んで。

「ごめんね、レオ。……ごめん」

息を吸い込むのも苦しそうに、彼女はそれを繰り返した。もう戻らない時間を、彼の前に現れてしまったことさえも、彼女は謝っていた。

「……こんな愛し方しかできなくて、ごめん」

レオは、静かに膝をついた。

彼女と同じ高さに目線を落とすと、無理やり引き寄せるでもなく、ただそっと、ヨルの手の甲に自分の手を重ねた。震える彼女の呼吸、滲んだ涙、割れるような痛み──そのすべてを包み込むように。

「……なぁ、謝るなって言ったのに」

それでも止められない彼女の謝罪に、どうしようもなく苦しい笑みが零れた。喉の奥が焼けるようだった。自分では抱えきれないほどの愛を、彼女が全部ひとりで背負っていたことに、今さら気づいて。

「俺だって、ヨルの全部を分かって抱きしめられてるわけじゃない。なのに、全部欲しがって、全部許して……自分の正しさにしがみついてた」

彼の声は、掠れていた。それでも穏やかだった。自分を責める彼女を、否定するでも肯定するでもなく、ただそばにいた。

「……たとえ、おまえの愛し方が間違っていたとしても、それを受け止めた俺の心は、偽物じゃない」

そして彼は、ヨルの手をとって、そっと自分の胸に当てた。強く、鼓動を刻むそこに。

「壊れたままでいいよ。傷だらけのままで……いい」

息を吸う。その胸ごと震わせながら。

「それでも、おまえを愛してるって言える俺でいたい」

彼は、ゆっくりと、深く、彼女を抱きしめた。

「ごめんなんて、言うなよ。……そんなふうに泣くくらいなら、俺の前からもう離れるな」

レオの胸の中で、嗚咽を含んだ息が広がる。ヨルは彼の温もりを感じながら、僅かに安心したように微笑んだ。

「やっぱり、拒絶されるより受け入れられる方が、ずっと苦しいね……」

だが、その言葉にはどこか嬉しさが滲んでいた。