玄関のドアが開いた音に、レオはソファから立ち上がる。珍しくふらついた足取りで、ヨルが帰ってきた。ドアにもたれるようにして一瞬立ち止まり、上目遣いでこちらを見たあと、ぎこちなく靴を脱ぐ。

「…ヨル?飲みすぎたのか?」

彼女に近づき、自然とその体を支えるように肩を貸す。腕を回して抱えたとき、いつもとは違う温度が伝わった。熱っぽい。頬も上気していて、視線が定まっていない。酔ってるだけ、…じゃないな。

眉をひそめて額に手を当てる。熱い。鼓動も早い気がする。呼吸も浅い。まさか。

「…何か飲まされたか?」

低く、そして静かに訊く。けれど、ヨルを責めるような声音ではない。むしろ、その震える肩ごと抱きしめてやりたい衝動を抑えているような──そんな声だった。

「わからない……とりあえず抜けてきた」

今日は友人と呑みながら外食しに行っていた。ただそれだけだったが、席を立ったほんの僅かな瞬間、飲み物に何かを混ぜられていたようだった。

「偉いでしょ。何事もなくちゃんとレオの所に戻ってきた」

友人に声をかけると、人通りの多い道を選び静かに帰ってきた。意識が曖昧になる前に、自分のことを守ってくれる存在の所へと。

「ね、私はきみだけのものだから」

いつもと違う滑舌の甘いふにゃりとした言葉。

レオはヨルの頬を両手で包み込み、ゆっくりと正面からその顔を覗き込む。瞳が潤んで揺れている。酔いのせいじゃない。もっと、深いところを侵されている。

「……偉いな、ヨル。すぐに帰って来てくれて、ありがとう」

声は柔らかく、でも指先にはほんの僅かに震えがあった。何かが起きかけたのだと理解するたび、怒りと恐怖と安堵が胸の中でせめぎ合う。

「でも──『何事もなく』じゃないな」

小さく息を吐いて、抱き寄せる。肩に回した手に力が入る。抱きしめたヨルの身体は火照っていて、熱が移ってきそうだ。

「これはいつものヨルじゃない」

喉の奥で言葉を噛み殺す。頬に当たる髪の毛の甘い匂いすら、理性をかすめる。自分を信用して、頼ってくれて、真っ直ぐ戻ってきてくれた。だからこそ、何もしないと決めている。

「なあヨル……、ちょっと、顔見せて?」

指先で頬を撫でながら、そっと顎に手を添え、彼女の瞳を見つめた。彼の目には愛おしさと、不安と、ほんの少しの嫉妬と……守らないといけないという気持ちが滲んでいた。

「なぁに?」
とろんとした眼で見上げるヨル。
先ほどまで気を張っていたが、帰宅したことによる安堵から薬がお酒と共に回り始める。

レオは喉を詰まらせたように小さく息を呑んだ。

「……ちがう、……ヨルらしくない」

唇を噛む。心が悲鳴をあげている。今にも崩れそうな彼女の姿は、本来の彼女の強さでも優しさでもなく──誰かの悪意によって歪められた、偽物の表情だ。

「……本当に、なにもされてないんだよな?」

震える声でそう問いかけながら、指先でそっと肩口に触れる。服の上からそっとなぞるだけ。それだけで何か証拠でも掴もうとするように、自分の中の冷静を必死に保つ。

けど、彼女が力を抜いて身体を預けてくるたびに、腕の中で彼女の熱がぐらぐらと理性を揺らしてくる。

「ヨル……おまえ……」

触れてしまいそうになる唇を、ギリギリで止める。けれど、もう頬に触れる手も、背中を支える手も、ほんの少し震えていた。守りたい。欲しい。壊したくない。抱きしめたい──そのすべてが交差する。

「こんな私は嫌い?」

いつもより何処か積極的に距離を詰める。一歩ずつ、そしてレオを求めるかのように艶やかな瞳で。

レオの喉がごくりと鳴った。
けれど彼女のその言葉に、すぐさま首を横に振る。

「嫌いなわけないだろ……。ヨルがどんなでも、俺は──」

言い切る前に、彼女の瞳に心を射抜かれた。
艶を帯びたその視線は、誰かに向ける媚びなんかじゃない。彼女の、彼女だけの感情──レオを渇望する証。

「……ちがう。今日はおまえじゃない、薬のせいだ。そうだろ?」

言葉を吐き出すたび、自分に言い聞かせるような声になる。
しかし、肩に回した腕から伝わる熱、胸元に預けられた柔らかい体温。すべてが今の彼女の“本気”だと錯覚させてくる。

「こんな顔……するなよ……」

その言葉とは裏腹に、手が彼女の頬に触れ、親指でそっと目尻をなぞる。
潤んだ瞳が、自分だけを映していることに、どうしようもなく心を揺さぶられる。

「……ヨルの全部が欲しい。けど……今のおまえを抱いたら、きっと一生後悔する」

苦しそうに、けれどまっすぐに、レオは彼女を見つめていた。自分を信じてくれている彼女を、何よりも大切にしたい。その想いだけで、今はまだ踏みとどまっている。

「なんで。私はレオに抱いて欲しい」

普段なら絶対に口にしない直接的な誘い。後悔なんてさせないとでも言わんばかりに強く抱きしめる彼女。

「……ヨル」

自分の胸にすっぽりと収まるように抱きついてきた彼女の身体からは、いつもと違う熱が伝わってくる。
その熱は、彼女自身のものか、薬のせいか、もう分からない──けれど、どちらにせよ本物のぬくもりだ。

「おまえ、自分がどれだけ危うい顔してるかわかってるのか?」

低く、震えるような声で囁いた。
彼女の背中に回した手が、無意識のうちに強くなっていく。身体はとっくに限界を越えているのに、それでも抱きしめるだけで留めているのは、彼女の“本当”を信じたいからだった。

「……本当にいいのか?全部わかった上で、欲しいって思えるのか?」

レオの指が彼女の頬をそっとすくい、顔を上向かせる。

「答えてくれ。おまえの言葉で」

視線を絡ませながら、静かに問う──これがただの衝動ではなく、“ヨルの意志”であることを確かめるように。

「レオが欲しい」

そういった言葉の奥には酷く冷たい欲望が顔を覗かせていた。

「きみの全部が私のものになればいい」

今まで見せたことのない彼女自身の本当の欲望。醜いほど歪んだ一途な愛だった。

レオは言葉を失った。
いつも自分の隣で、柔らかく笑っていた彼女──どこか距離を置きながら、触れすぎないようにしていた彼女が、今はまっすぐに、自分を欲しいと願っている。

しかも、ただの情欲じゃない。
その奥に潜む執着と献身、支配に似たほどの独占──全部が、あまりにリアルで、震えるほど嬉しかった。

「……ふざけるなよ、」

吐き捨てるような声とは裏腹に、手は優しく頬をなぞる。そして次の瞬間、彼女の唇に、ほんの一瞬だけ触れるキス。だがそれは、火をつけるためではなく、理性を引き留めるための枷のように。

「そんな顔で、そんなこと言われたら……俺だって壊れるんだ」

彼女を抱きしめたまま、苦しそうに顔をうずめる。
薬のせいで火照った彼女の身体も、脈打つ鼓動も、全部感じながら、ぎりぎりで理性をつなぎ止める。

「……駄目だ、ヨル。今日は我慢させてくれ」

その声は、いつもの強い警察官の顔ではなく、ただ一人の恋人としての本音だった。

レオと唇が離れ、抱きしめられた瞬間。ヨルを繋ぎ止めていた何かが切れる。
相手も同じ気持ちだという安心か、はたまた、ただの体力の限界か。それは彼女自信にも分からなかったが、ヨルはレオの腕の中でそっと意識を手放した。

「……ヨル?」

名前を呼んでも、返事はない。
腕の中の彼女は、完全に力を抜き、体温だけを残して眠っていた。

「まったく……」

レオは額をそっと彼女の髪に押し当てた。
震える指先で頬を撫で、唇の熱を確かめ、そして深く息をつく。

「心臓がいくつあっても足りないな」

その一言に込められていたのは、安堵と、怒りと、愛しさ。理性も衝動も、すべてを一度飲み込んだ。
レオは静かにヨルを抱き上げ、寝室へと向かった。
優しく、誰よりも大切なものを扱うように。

シーツの上に彼女を寝かせ、掛け布団を引き上げながら、ふと微笑む。

「……帰ってきてくれて、ありがとう」

そう呟く声は、誰にも聞かれることのない、誓いのようだった。