人通りの少ない裏道。駅から少し外れた場所にある小さな商店街。平日の昼下がり、空は曇り、湿気を含んだ風がビニール袋の端を揺らしていた。
その通りを、ヨルがひとり歩いていた。
その数歩後方。彼女と一定の距離を保ちながら歩いていた男が、ついに足を早めた。
初めは少し離れていたが、距離を詰め、店先を覗き込もうとしたタイミングで声をかける。
「……すみません。ちょっと、いいかな」
年齢は40代半ば。清潔感はあるが、どこか胡散臭さを感じさせる笑みを浮かべた男──内藤は、明らかに“用事があるふう”を装った。
だが一瞥したもののヨルの足が止まる気配はない。その背中に向かって、彼は一歩、さらに一歩と近づく。
「無視か……冷たいなぁ」
声のトーンが少し変わる。
だがそれでもヨルが無視を貫こうとしたその瞬間、男の手が伸びた。
「……君、レオって刑事と付き合ってるんだろ?」
その言葉と同時に、彼女の細い手首を強く掴んだ。
その握りは明らかに“呼び止める”にしては強すぎる力だった。皮膚が白く、指の形に赤く染まり始める。
「ちょっとだけ話がしたいんだ。なぁ、彼の過去、どこまで知ってる?」
内藤の笑みは歪んでいた。
強く、醜く、過去への恨みだけを滲ませるような目でヨルを見下ろしていた。
「……離して下さい」
そこに恐怖はなかった。ただ、レオ以外に触れられたことへの不快感を滲ませながら、その黒い瞳で男を刺すように見た。明らかにレオに友好的な存在ではない"それ"を。
内藤はヨルの冷たい目線を受けて、一瞬だけ怯むように眉を動かした。
だが、次の瞬間にはその不快を上塗りするように、ぐっと手の力を強める。
「へぇ……怯まないんだな」
嘲るような笑みを浮かべて、掴んだ手首を無理に引こうとするわけではない。ただ、逃げられないようにそのまま握りしめながら、口元を彼女の耳に近づける。
「レオって、随分真面目な顔して、俺をぶん殴ったんだよ。知ってるか? あいつ、人を殴って仕事を奪ったんだ」
その声は、過去の屈辱を滲ませながらもどこか愉悦すら含んでいた。自分の言葉が彼女に届くのを、確かめるようにゆっくりと。
「あいつは、俺がやってないことをでっち上げて、他の職員を巻き込んで、俺を追い出した。……あれは正義でもなんでもなかった。ただの暴力だったよ」
言葉の端々に、壊れたような執念とねっとりとした粘着質な情念が滲む。
「その正義感に酔った面、今でも変わってねぇんだな。今度はお前か……あんなやつと付き合って、可哀想に」
そう吐きながら、掴んだ手首に目を落とす。
細く白い手首に刻まれる自分の痕跡が、何よりも彼の憂さ晴らしになっているようだった。
「……彼が、そんなことを……?」
ヨルはその一瞬で全てを察した。握られた腕の気持ち悪さも、耳元で吐かれた虚言も。目の前の男がレオに害をなす存在であるということを認識していた。
「暴力だなんて、そんな……信じられません」
まるで、か弱く無害な女性であるかのように、より多くの情報を引き出すために馬鹿な男の口車に乗る。掴まれていない方の手で自分の口元を隠し、さも驚いたかのように見せて。
「……だろ? 信じられねぇよな、あんな綺麗な顔してるのにさ」
内藤は、ヨルの表情の変化を真に受け、満足げに唇を歪めた。
「なぁ、聞いた話じゃ、あいつはもう警察になったんだって? 笑っちまうよな。人ひとり潰しておいて、正義面してバッジつけてるんだぜ?」
掴んだ手首をぐっと引き寄せる。
ヨルの身体がわずかに前へ傾ぐと、内藤は顔を寄せ、あろうことかささやくように続けた。
「お前も、いずれあいつに壊されるよ。あの手で、あの目で。……俺みたいに、な」
その言葉には、哀れみの仮面を被った醜い喜びが滲んでいた。
ただの復讐ではない。彼の感情は既に歪んで、ただ“壊す”ことに快感を覚えているだけだった。
「……なぁ、少し話さないか? コーヒーくらいならおごってやるよ。昔話の続き、興味あるだろ?」
舌なめずりするような声音で、ヨルの耳元に囁く。
爪の先ほどの善意も、真実もない。あるのはただ、レオの人生を汚すためだけの“悪意”だった。
「……わかりました」
嫌悪感で歪みそうになる表情を抑えて、弱々しい声で答えてやった。まるで信じていた人に裏切られたかのような色を滲ませて。
「彼のこと、聞かせてください……」
内藤の目がいやらしく細まる。
まるで”落ちた”と確信したかのように、口元を歪めて笑った。
「いい子だな、お前……俺は、こういう素直な子は好きだよ」
手首を握っていた指がわずかに緩む。
だがそれは優しさではない。ただ、これ以上傷をつけると“嘘がバレる”と察しただけだ。
「じゃあ、あそこの角曲がった先に喫茶店がある。古いけど、静かで話にはちょうどいい」
まるで自分が紳士か何かであるかのように振る舞いながら、ヨルの進行方向を誘導する。
服装も振る舞いも下品ではないのに、ひとつひとつの言動の裏に潜む、ねっとりとした執着と悪意が滲んでいた。
「……お前、名前は?」
まるで獲物に首輪をかけるように、抑えた声で訊いた。すべてを手に入れたつもりで、既に優位に立った気になっている。
「まだ、お会いしたばかりですし……名前は、お兄さんのお話を聞いてからでも良いですか?」
ヨルには苗字が存在しない。そのため、伝えるには偽名か、レオがくれた名を伝えるしかなかった。だが、偽名はバレるリスクが高く信頼を失う可能性がある。そして、"ヨル"という名はこの男の口から聞きたくなかった。
「それじゃ……ダメ、ですか?」
カフェの扉はもう目の前。
少し眉を寄せて困ったような表情を浮かべて、可愛い声で"お兄さん"と呼べば、愚者は簡単に騙される。
内藤の顔に、わかりやすい緩みが走る。
まるで自分が主導権を握っていると信じて疑わない男の表情だった。
「……ははっ、そういうとこも可愛いんだな、お前」
“お兄さん”という言葉に、まんまと気を良くした様子で、内藤はドアを開けて先に入る。
カラン、とドアベルが鳴り、店内にほのかなコーヒーの香りが広がる。客は少なく、落ち着いた雰囲気だ。
「こっち、こっち」
奥の窓際、通りから死角になる席を選ぶあたりに、彼の卑劣な性格が滲んでいた。
当然のようにソファ側に座り、ヨルの腰を手で誘導するように示す。
「まぁ、緊張しなくていいさ。俺はな、あんまり多くを求めちゃいない。ただ、真実を知ってほしいだけなんだ」
そう言って、内藤はカップを置いたトレイを指先で叩く。“真実”とやらに都合のいいフィクションを詰め込みながら、目の前の女性をどう操るかだけを考えていた。
「なあ……あいつ、お前にちゃんと過去のこと、話してるか?」
静かなトーンで、だが確かに悪意を含ませた口調で、第一声を切り出す。
その裏側に潜む復讐と歪んだ快感は、今にも顔を覗かせそうだった。
「いえ……実は彼、あまり話してくれなくて」
目の前の男の行動の全てに不快感を感じながらも、望み通りの言動で気を緩ませる。
「幼い頃に事故で家族を亡くして、施設で育ったってことくらいしか……」
レオは過去の話をしてくれる。家族で行った場所や、食べた物、妹との思い出や両親、飼っていた猫の話まで。古傷に触れることになるためヨルから望んだことはなかったが、彼は誠実に伝えてくれていた。
「……施設での話は特に、聞いたことなくて」
だが、目の前の男についての因縁は本当に聞いたことがなかった。だからこそ知る必要がある。たとえ紡がれるのが嘘でも、真実への足がかりになるのならそれでいい。
「……そうか、やっぱりな」
内藤はコーヒーを一口含むと、重々しく頷いた。
あたかも「可哀想にな」と言いたげな目で、ヨルを見つめる。だが、その視線の奥にあるのは“優越感”だ。
「あいつ、自分に都合の悪いことは全部隠す。そういう奴だよ」
ゆっくりとテーブルにカップを戻し、わざとらしく息を吐く。まるで“重い告白”をするような芝居めいた溜息だった。
「俺がいた施設――そこには、親のいない子供たちが沢山いた。俺は職員だったけど、出来る限り、みんなに優しく接してたつもりだったよ。……あいつ以外にはな」
内藤は小さく笑った。
「レオはな、妙に正義感が強くてさ。周囲のことを見下していた。少しでも気に食わないと殴ってくるし、“正しい”ことを押し付けてくる。……まるで自分だけが正義みたいにな」
コト、と指でトレイを叩く音が響く。
「……ある日、ちょっとした口論があった。職員の一人と。俺は止めようとしただけだった。なのにレオがいきなり俺を殴ってきてさ。施設中で大騒ぎになったよ」
内藤の目は細くなり、語尾には確かな恨みが滲んでいた。
「結局、俺が悪者にされてクビ。あいつは何のお咎めもなし。その後、正義面して警察官になったって聞いて、笑ったよ。あいつみたいな人間が、“正義”の名の下で人を裁くなんて、冗談だろ?」
そこで一度、黙ってヨルを見つめる。
「なあ……お前、本当にあいつのこと、信じてるのか?」
ゆっくりと問いかけるその声には、“信じているなら裏切られる”という確信に満ちていた。それは、誰よりも愚かな男が口にした“最後通告”だった。
「信じて、いました……でも、お兄さんの話を聞いて、少し不安になってしまって……」
微塵も感じていない不安を口にしながら、どうやってこの男を消そうかと思考を回し始めていた。
「婚姻の約束もしてしまったのに……人を殴るような人だとは、思わなくて……」
全くの出鱈目を並べ、レオとの破局が社会的に大きな物であると、男に認識させる。そうすれば、確実に別れさせようと手を回そうとしてくるだろうから。
「そんな……私どうしたら……」
恋人より見ず知らずの男を信用する馬鹿な女を演じて見せる。僅かに目を潤ませて、まるで縋るように問いかけた。
「……そうだよな、そりゃ不安になるよな」
内藤は同情を装ったような顔で、小さく頷いた。
だがその目は、弱った獲物に牙を向ける捕食者のように鋭く光っている。口元には、うっすらと笑みさえ浮かんでいた。
「あいつは、“都合の悪い事実”を知った女なんて、どうせすぐ切り捨てる」
囁くように、だが確信を持って語るその声には、卑劣な自信が滲んでいた。
「でも……安心しな。俺が、守ってやる」
コーヒーカップの縁を指で回しながら、まるで自分が救世主であるかのように振る舞う。
「婚約だろうがなんだろうが、そいつに騙されていたと気づけば、世間はあんたの味方だ。警察内部の話も、俺には繋がりがある。必要なら、内部の人間からも“証言”を取ってやれる」
自分にそれだけの“力”があると信じ込ませたい一心で、舌先三寸の嘘を重ねる内藤。
過去に失った立場の埋め合わせをするかのように、今この瞬間に手に入る支配に酔っていた。
「……今すぐじゃなくてもいい。ただ、“もしもの時”には、俺に相談しな」
そう言って、スーツの胸ポケットから名刺を一枚取り出す。
印刷された名前は“内藤義則”。いかにもな肩書きと連絡先が書かれている。
「俺は……間違っていなかったことを、証明したいだけなんだ」
まるで正義の味方のように語るその姿を見ながら、ヨルの眼差しの奥では、冷たい計算が、静かに整っていく。
「ありがとうございます、……内藤さん」
その口元には初めて心からの笑みを浮かべていた。容易く手に入った名刺を大事そうに鞄へと仕舞うと、自然な仕草で腕時計を確認した。
「また、連絡させてください。頼りにしてます」
内藤は満足げに頷いた。
「ああ、いつでも連絡くれよ。待ってるからさ」
まるで自分の“証言”が彼女の心を揺らしたとでも思っているような、愚かな目をして。笑顔にすっかり気を良くした様子で、肩の力を抜き、椅子の背にもたれかかる。
「……ほんと、俺と出会えてよかったな」
ふっとため息混じりに呟くその声に、僅かに酔いが滲んでいる。己が他者より優位に立ったという慢心が、完全に警戒を解かせていた。
