レースのカーテン越しに、やわらかい光が部屋を包んでいる。

シャワーを浴び、冷めた朝食を食べた午前中。
レオは少し離れた位置から鏡台の前に立つヨルを見ていた。着替えを済ませた彼女は、真っ直ぐ鏡に向き合っている。白い指先が、化粧道具の上を滑るように動き、口紅を選び取った。

彼女がこうして支度をする姿を見るのは、もう何度目だろう。
それでも、不思議と目が離せない。見慣れているはずの動作のひとつひとつが、今日は妙に艶めいて見える。

「……そんなに見つめてどうしたの?」

鏡越しにレオと視線を交えると、手に持つリップの蓋を丁寧に閉じる。猫の肉球のようなモーヴピンクの唇を柔らかく上げて。

「いや、綺麗だなと思って」

視線を外すこともなく、じっと彼女の眼差しを受け止める。まるでそれだけで、今この瞬間の空気まで変わってしまいそうなくらいに、彼女の存在が目を引いた。

「……他のやつに見せたくなくなる」

視線を唇に落としながら、ほんの少しだけ眉が寄っていた。冗談のようでいて、冗談に聞こえない。彼の中で渦巻く感情は、ただの独占欲という言葉では片付けられないほど根が深い。

「かわいい我儘だね」

ヨルはレオの方へ近づくと、まだ乾いていないリップを纏わせたまま彼に唇を重ねた。軽く触れただけだが、ほんの少しだけレオに色が移る。

「私はきみしか見てないから大丈夫」

僅かに残った紅を塗り広げるように、その唇を優しく指でなぞった。その眼はレオと同じだけの執着を孕んでいる。

レオは触れられた唇にわずかに驚いたように瞬きをし、それから、ヨルの指先を視線で追いかけた。唇に残った色は彼女から与えられた証のようで、妙に胸の奥が熱くなる。

「……わかってる」

彼女の言葉も、仕草も、すべてが自分だけに向けられているとわかっているのに、それでも足りないと感じてしまう自分がいる。
その感情を必死に押し殺しながら、静かに彼女に笑いかけた。

「……ほら、遅れちゃうよ」

彼の不安に気づきながら、安心させるように微笑むと彼の手を引いて玄関へと向かうヨル。靴箱から1番高いヒールを選ぶと、上品に足を滑り込ませた。

「……今日のヒール、高いな」

手を引かれるままに向かった玄関で、レオはふと気づいたように足元へ視線を落とし、問いかける。
彼女が出かける時によく高めのヒールを選んでいることには気づいていたが、今日のは特に目を引いた。

「歩きにくくないか? 足、痛くしないか……」

気遣うように問いながらも、その裏にある理由が何となく胸に引っかかっていた。

「高いヒールを履いたら、レオとの距離が近くなるでしょ」

身長差を埋めるような高いヒール。履き慣れたそれに視線を落とすと、革靴を履き終えたレオに一歩近づく。狭い玄関でいつもより近くなった距離で。

「それに、きみにキスもしやすい」

触れることはなく、体温を感じるような息だけを与えて目を細めるヨル。

レオは、目の前で微笑むヨルの仕草に息を止めたまま、その表情を見つめた。
ほんの数センチの距離──触れないのに熱を感じる、息がかかるだけの挑発。

「……そんな可愛い理由だったのか」

低く落とされた声は驚きと、それ以上の感情を孕んでいた。ヨルの顎に指を添え、そのまま距離を詰めて唇が触れる寸前で止まる。

「でも……履かなくても届くだろ」

不意に吐き出すように言って少し屈むと、そのまま静かにキスを落とした。レオの唇は強くも弱くもなく、ただ「嬉しい」という感情をそのまま形にしたような触れ方だった。

やがて離れると、ふっと鼻先をすり寄せて微笑む。

「楽しいデートになりそうだ」

指先がヨルの頬をなぞる。くすぐったくなるほど優しく、けれど彼の瞳は熱を帯びていた。





──某セレクトショップ 店内。正午過ぎ。

天井からぶら下がるペンダントライトが、優しい光で服を照らしている。
アウターが並ぶラックの間をゆっくりと歩きながら、レオは隣を歩くヨルの足元をふと見た。
高めのヒール。慣れているとはいえ、歩きにくくないのかと少し心配になる。

「……気に入りそうな物はあるか?」

並んで歩いていると、ヨルの目線がほんの少しだけ近くなる。そのことに気づきながら視線を前に戻した。

軽く息を吐いて、黒のシンプルなジャケットを指でつまんでみせる。服なんてどれも変わらない。そんな意図を読み取ったのか、隣から視線を感じる。ヨルの目には、“それじゃダメ”って文字が浮かんでた。

「……何か文句でも?」

振り返って問いかけると、彼女の唇には意味ありげな笑みが浮かんでいた。

「たまには、普段と違うのも悪くないと思うの」

そう言ってヨルが手に取ったのは、クリーム色のタートルネック。荒目のニットで柔らかい印象を持つようなデザインは、普段のレオからは想像のつかないファッションだった。

「……着て見せて」

手に持たされたニットを見下ろす。
自分のクローゼットにはまず入ってこない色味と質感。けれど彼女の視線は真っ直ぐで、拒否の余地を与えずに「着ろ」と言っていた。

「……わかった。待ってろ」

試着室に入り手早く替える。
慣れないニットは首元がくすぐったくて、鏡の前の自分はどこか落ち着かない。

──カーテンを開けると、そこにヨルの視線。

「……どうだ」

思わず視線を逸らしながら立ち尽くす。
普段の黒やグレーのスーツスタイルとはまるで違う、やわらかな色合いの服に包まれた姿。
どこか頼りなく見えるんじゃないか──そんな不安が頭をよぎる。

けれど、彼女の目に浮かんでいたのは──想定外の熱を帯びた、吸い込まれるような光。

「……黙ってないで何か言え」

心なしか声が掠れた。
見つめられるのが、妙にこそばゆい。

ヨルは隅々まで焼き付けるように視線を這わせた。鍛え上げられた肉体のラインはどんな布でも美しく魅せる。普段は堅く威圧感を感じるような服装だが、柔らかい色合いはその印象を和らげていた。

「……似合ってる」

だが上がる口角とは裏腹に、彼女はそのまま試着室のカーテンを閉じる。

「でも、この服はダメだね」

仕切りの布越しにくぐもった声でそう伝えた。彼の魅力を他の人に知られては困るから、そんな意図が籠った声色で。

「……なんだ、それ」

閉じられたカーテンを前に、軽く肩をすくめるレオ。理由を問うまでもなく、ヨルの声に込められた意味は痛いほど分かっていた。独占欲と嫉妬、それをほんの少しだけ可愛く包んだ、“わがまま”だ。

「着せておいて、それはないだろ」

試着室の向こうにいるヨルの気配を、耳と肌で感じながら、息を吐く。

「似合ってる、でも見せちゃダメ、か……」

思わず低く笑ってしまった。
まるで噛みついたら離さない猫だ。

レオの苦笑を聞きながら、ほんの少し頬に熱が走ったのを感じる。あの服を着るのであれば、眉間に皺を寄せて手当たり次第に人を睨みつけて歩いて貰わなければ、そんな馬鹿げた自分の考えにヨルは口角を上げた。

「……優しいレオは私だけが知っていればいい」

誰にも聞こえない小さな声で漏らすと、試着室の前に並ぶ冬用のロングコートに目が止まった。彼が中で着替えている音を聞きながら少し離れると、グレーの重たく暖かそうな生地を手に取る。

「レオ、着替え終わった?」

一緒に取った黒のトレーナーと、グレーのロングコートを抱えて試着室の中へと声をかけた。これなら柔らかすぎる印象を避け、彼に似合っていて新しい冬でもきっと暖かい。

「……ああ、終わった」

レオは試着室のカーテンをわずかに開けると、そこに立つヨルの姿を見て一瞬動きを止めた。
腕に抱えたコートとトレーナー。その表情に、なぜか妙に満足げな色が滲んでいる。

「……次は、これか?」

彼女の選んだ“正解”が手の中にあることが分かって、わざと少しだけ素っ気なく尋ねた。彼女が頷く前に、その目がすべてを語っている。

レオは何も言わずに受け取ると、静かに再びカーテンを閉めた。

布が擦れる音、重たいコートの生地が肩を包む音。それを試着室の外で待つヨルは、まるでその音ひとつひとつが彼を形づくっているような錯覚に囚われる。

数分後──。

「……どうだ?」

カーテンが再び開く。
黒のトレーナーにグレーのロングコート、無骨さと柔らかさを絶妙に纏ったその姿は、ヨルが求めた”レオだけが纏える優しさ”を映し出している。

「おまえの思う通りになったか?」

自分が仕上げた完璧な姿に目を細めて満足げに笑うヨル。

「うん。格好いい」

あえて包み隠さず真っ直ぐな感想を投げると、一歩彼に近づいて襟元に触れる。人前でのスキンシップは避けるが、さりげなく彼に触れていたかった。

「よく似合ってるよ」

視線を逸らさぬままに、もう一度率直に褒める。自分の手の中にあることを確信するように微笑みながら。

レオの眉がわずかに緩む。
普段なら照れくささや恥じらいが先に来るその言葉も、今のヨルの口から聞くと──どうにも誇らしさの方が勝る。

「……おまえに褒められるなら、悪い気はしないな」

襟元に添えられた指先。力は入っていないのに、その熱がじわじわと伝わってくる。
静かな店舗の一角、他愛のない試着のはずが、ただの”服”を通して2人の関係がそっと深まっていくのが分かる。

「そんなに満足そうな顔されたら、脱げなくなる」

そう言って小さく息をついたあと、レオはポケットに片手を入れたままヨルを見下ろした。
ほんの僅か、彼女の耳が赤くなっているのが見えたのは──気のせいじゃない。

「……まだ秋だよ」

試着室のカーテンを引いて自分にかけると、手を添えていた襟元をゆっくり引き寄せるヨル。

「冬になったら、また着て見せて」

誰にも見られない小さな密室で軽く触れるだけのキスを落とすと、何事もなかったようにカーテンを開いてすぐに離れる。

「着替え終わったら、私の服も選んでくれるんでしょ?」

その一瞬のキスに、レオの瞳が細くなる。
まるで熱が染み込んだように、襟元に残る感触と彼女の囁きが、肌の奥でじわじわと効いてくる。

「……ああ」

低く静かな声でそう応えると、カーテン越しにヨルの気配を感じながらコートとトレーナーを丁寧に脱いで元の服に着替え始める。そして再びカーテンが開いた時には、すでにいつものレオに戻っていた。けれど──瞳の奥にはさっきの熱がきちんと残っている。

「どんなの着せても文句言うなよ」

そう言って案内したのは、落ち着いた色味のトレンチコートや、上品なプリーツスカートが並ぶ一角。普段のヨルの雰囲気とは少し違う、でも彼だけが見てみたかった”彼女の別の一面”が浮かぶような服たち。

「これ……着てみてくれないか」

手に取ったのは、やや長めの丈のワンピース。淡いグレーとモカが混ざったような、しっとりとした色合いの一着。
派手じゃない。けれど、静かに息をのむような美しさを秘めたデザインだった。

「……きっとよく似合う」

ほんの少し、目線を外しながらそう言ったレオの横顔には、どこか恥じらいと確信が同居していた。

「わかった」

差し出されたワンピースを受け取ると、何の迷いもなく快諾する。彼が自分のために選んでくれた、それだけで拒否する気なんて全く起きない。

「着替えてくるね」

試着室に戻ると、今度は自分が先ほどの小部屋へと入る。普段着ている服よりふんわりとした軽い素材で、可愛らしいくすんだ色合い。背中のファスナーに手を伸ばそうとして、少し悪戯な考えが浮かぶ。

「……ねぇ、レオ。ファスナーあげてくれない?」

カーテンから少し顔を覗かせて、彼に向かってそう言った。レオはその言葉を聞いた瞬間、反射的に顔を上げる。

「……そういうことを、平然と頼むな」

呆れたような声色。だがすぐに試着室の中へとそっと片足を踏み入れる。
彼女の顔はいつもよりどこか悪戯っぽくて、それを前に断る術を彼は持ち合わせていなかった。

「背中、向けろ」

柔らかく衣擦れする音と互いの呼吸。彼女の背後に立ったレオは、しばし黙ったまま指先をワンピースのファスナーに添えた。

素肌に触れる寸前の距離。
ファスナーを少しずつ引き上げながら、彼の指先が無意識に震える。

「……二人入ると、狭いな……」

囁くような声。
ワンピースの布地を傷めぬように、慎重に、慎重に引き上げながら。けれどあと少しで上まで届くというその瞬間──レオの動きが止まった。

「……ヨル……」

背後にそっと視線を落とした。
彼女のうなじ。柔らかな肩甲骨。“彼女の輪郭”が、そこにはある。そして、試着室の鏡越しに視線が交わった瞬間。

「……可愛すぎて、困る」

わずかに吐息が混じる声。
ファスナーを引ききるその最後まで、彼の指先は緩やかに、丁寧に触れていた。

「……惚れ直しちゃった?」

ほんの少し頬を緩めながら、ファスナーを上げ終え試着室から離れる彼へと向き直る。
控えめにスカートを揺らして、彼が選んだ服を見に纏う姿を見せつけると、ほんの少し首を傾げた。

「お気に召したかな」

レオはその場で動けなかった。
振り返ったヨルの姿に、ほんの一瞬、息が詰まる。くすんだ淡いカラーの柔らかいワンピースが、彼女の白い肌に溶けるように馴染んでいた。

「……ああ、参ったな」

苦笑を浮かべながら額に手を当てる仕草は、戦意喪失の合図のようだった。
そして、ゆっくりとヨルの前に歩み寄ると、彼女の髪にそっと指を滑らせて耳にかけてやる。

「……惚れ直すというより、惚れ込みすぎて困ってる」

目線を落とし、まっすぐ彼女を見つめる。
その視線には、冗談の色はなかった。

「誰にも見せたくないくらい、綺麗だ」

その言葉に続くように、彼女の手を取って試着室の奥へと一歩踏み入れる。試着室の奥、壁に軽く手をついてヨルの退路を塞ぐように立ち塞がると、もう片方の手でそっと彼女の腰に触れる。

「さっきの仕返し……してもいいか?」

低い声が、至近距離で落ちる。
その息が頬にかかるほど近い位置で、けれどレオはまだ何もしていない。

「……家に帰ったらね」

腰を抱かれ引き寄せられながらも、静止させるように彼の胸元に手を置いて僅かに距離を取ったヨル。おあずけも悪くないでしょ、というように見上げると彼を引き止めた。

「ここではダメ」

レオは微かに肩をすくめ、小さく息を吐いた。
けれどそれは、苛立ちでも不満でもなく──むしろその“おあずけ”に甘く翻弄される悦びのようなものだった。

「……わかった。帰ったら、たっぷり仕返しさせてもらう」

そう呟くと、胸元に触れたヨルの手をそっと自分の指で包み込む。

「それまでは、手を繋いで我慢しておく」

言葉と同時に、レオは手の甲に口づけを落とした。試着室という小さな舞台のなかで、まるで忠誠を誓うように優しく、そして確かに。

そして、名残惜しそうにヨルの腰から手を離した。視線だけはまだ熱を帯びていたけれど、彼女が引いたラインを越えるつもりはない。

「次は靴でも見に行くか? ヒール以外も、たまには履かせてみたい」

そう提案しながら、レオは先に歩き出した。
でもその歩幅は、ヨルの横に並ぶために少しだけ緩めてあった。