陽射しはやわらかくて、風は少しひんやりしている。窓辺には揺れるカーテンの影。

ダイニングには温かな紅茶の香り。
けれどベッドの中にはまだ、寝癖のついたまま毛布に潜るヨルがいる。

レオはそっとマグカップを置いて、寝室のドアを開けた。

「……ヨル。起きないのか?」

声をかけても返事はない。ただ、毛布の中で小さくぴくりと動く。

「寝たふりしても無駄だ。おまえが朝ご飯作るって言ったの、忘れてないからな」

言いながらベッドの縁に腰を下ろすと、毛布の奥からうっすらとした声がもれる。

「……布団の外、寒いから……やだ」

こたつの中の猫のように丸まって、外へ出たくないと漏らすヨル。冬が近づき気温が低くなっている。まだ暖房をつけるほどでは無いが、寝起きの体温を晒すには抵抗がある温度。

レオは苦笑を浮かべたまま、静かにため息をついた。毛布越しにうっすらと感じる、ヨルの体温と甘えた気配。彼女はこういうときだけはやたらと素直になる。

「……甘えてるのか?」

問いかけに返事はなく、ヨルはさらに毛布に潜り込む。まるで『聞こえてません』という態度。

レオはゆっくりと身をかがめ、毛布の端に手をかけた。「仕方ないな」と小さくつぶやくその声は、どこか嬉しそうでもある。

「じゃあ……少しだけ、俺も入れてくれ」

そう言って、強引すぎない仕草で毛布の中に潜り込むと、そこには温もりを手放したくない顔のヨルがいた。眠たげなまぶたと、わずかに上がった口角。

レオは静かに彼女の肩を抱き寄せて、その額に唇を落とす。

「……こうしてれば、目が覚めるだろ?」

囁く声は低く、けれどどこまでも柔らかい。

布団の外から来た彼の手はヨルより少し冷たい。その僅かな温度差に少し身体が跳ねたが、触れられた部分の熱を分け与えるかのように身を任せる。

「レオ」

優しい声には愛おしさが滲んでいる。毛布の下、狭いその空間で二人だけの世界にヨルは満足げな息を吐いた。

レオは、呼ばれた自分の名にわずかに反応し、目を細めた。その声に込められたぬくもりと信頼が、胸の奥にじんわりと広がっていく。ヨルの体温が、彼の指先に、胸元に、確かに染み込んでくる。

「……何だよ、その声」

恥ずかしそうに笑いながらも、レオの手はヨルの背中にまわる。腕いっぱいに、彼女の存在を確かめるように包み込んだ。
指の動きは慎重で、決して急かすものではなく、ただ、彼女の今の呼吸や体温に自分を合わせていく。

「……離れたくないな」

低く押し殺したような声で、レオは本音を漏らした。目を閉じるヨルの額にもう一度キスを落としながら、彼はそっと言葉を続ける。

「外、寒いなら……今日はもう、起きなくてもいい」

ただただ、二人きりの静かな朝に差し出された、ささやかな提案。

「……甘やかされるのも、悪くないね」

額に触れた柔らかさに何かが満たされる。そっと彼に身を任せながら、彼女は少し複雑な表情をした。

「でも今日は前から約束してたから。頑張って外に出る」

そう言って毛布の端を少し嫌そうにめくる。

「忙しいきみとの、久々のデートだからね」

レオは、めくられた毛布の端から覗くヨルの髪に手を伸ばし、そっと指先で梳く。
彼女の言葉が嬉しくて、でもどこか申し訳なくて、眉間にほんのわずかに皺が寄った。

「……悪いな」

ぽつりと呟くような声。
予定を合わせるのも、こうして朝をゆっくり迎えるのも、当たり前じゃないことをよく知っている。だからこそ、ヨルが寒さに身を震わせながらも「行こう」とすることが、たまらなく愛しかった。

「ありがとう、ヨル」

そう言って、レオは少しだけ身を起こす。
ヨルが起きやすいようにと、毛布の端をそっと持ち上げてやる仕草は、まるで彼女の背中をそっと押すような、そんなやさしさを含んでいた。

「でも……出かけるまで、あと十分。ぎりぎりまで、ここでこうしててもいいだろ?」

そう言って、レオは再びヨルを引き寄せる。
たとえ予定が控えていても、今この時間だけは、レオにとって手放したくないものだった。

「……きみにそんなこと言われたら、布団から出るのが惜しくなる」

引き寄せられるまま彼に身を任せて、唇に軽く触れる。そして少し試すように笑うと抱き寄せて耳元に囁いた。

「でも……十分じゃ済まないからダメ」

そのまま彼の腕からするりと抜けると冷たい床に素足で触れ、少し眉を寄せた。

レオは、ふっと息を漏らして小さく笑った。
ヨルの囁きが耳の奥に残っている。その声の柔らかさと、ふいに離れていく温度の対比に、胸の奥が甘く疼いた。

「……容赦ないな」

布団の温もりが急速に消えていくのを感じながら、まだそこにいるかのようにレオは手を伸ばしていた。けれど、それもすぐに引っ込めて、上半身を起こす。

「寒いならこれ履け」

そう言いながら、サイドテーブルに置かれていた彼女のルームソックスを拾い上げると、無言でヨルの足元にしゃがみ込む。
彼女が拒まない限り、そっとその足にソックスを履かせるつもりで。

「……冷えないようにな」

そう呟きながら、不器用に優しく彼は彼女の足を包んだ。触れたのはただの布と肌なのに、それがとても尊く感じる。

「まるでお嬢様になった気分……」

ベッド横に膝をつき自分の足を包む彼の手。それを静かに目で追いながら、笑いを含んだ声で溢す。壊れものを扱うような優しいレオの手つきのおかげで、さっきまで冷たかった空気まで愛しいもののように感じた。

レオの目の前には、ベッドの上から見下ろすように自分を見つめている彼女──どこかくすぐったそうに笑うその顔に、喉がひとつ鳴った。

「おまえが望むなら、いくらでもしてやる」

その声には確かな熱があった。
指先でヨルの足首を包むように撫でながら、まだ素足の爪先に一度、そっとキスを落とす。まるで忠誠を誓う騎士のようなその仕草に、茶化すことなく真剣さだけが滲んでいる。

「……寒さがマシになったなら、少しは報われる」

顔を上げると、彼の視線はまっすぐにヨルの目を捉える。その瞳には、ただ彼女という存在をひとつ残らず受け止めようとする静かな意志があった。

「準備、手伝うよ。時間がかかってもいい。……おまえと行くなら、どこでもいいから」

その言葉に込めたのは、優しさと、独占欲と、少しの企みだった。指先を絡め、彼女の反応をじっと待つように、静かに目を細めた。

彼の慣れない行動に、珍しく僅かに視線が泳ぐヨル。暖かさに包まれた自分の両足に視線を落とし、少し耳を赤くする。

「顔、洗ってくる……その後、ご飯食べよう」

指を解いて立ち上がると静かにそう言い残し、彼に背を向け洗面台へと逃げた。

レオはその背中を目で追いながら、彼女の照れ隠しに微かに笑みを漏らした。
部屋の奥に小さく響く足音と、洗面台の戸の閉まる音。しばしの静寂が訪れる。

「……かわいいな」

ぽつりと独り言のように零したレオの声には、どこか誇らしげな響きすらあった。
それは、誰にも見せないヨルの表情を見た者だけが持てる、ささやかな優越。だがすぐにその思いを引き締めるように、レオは立ち上がる。

「……朝ご飯、作るか」

部屋の空気を切り替えるように短く呟くと、彼はキッチンへと向かった。
冷蔵庫を開け、卵とベーコン、パンを取り出す。トースターのタイマーを回すと、ささやかだけれど温かい香りが部屋に満ち始めた。
それはまるで、日常のなかに溶けた愛情の匂いだった。





暫くして、顔を洗ってきたヨルが目玉焼きを焼くレオの背後に寄った。

「レオ」

熱のない軽い声色で彼の名を呼ぶ。そして、振り返ったレオの頬に少し背伸びをして、キスを落とした。

「……さっきのお返し」

洗顔料の爽やかな香りを残して、ヨルは少し悪戯っぽい笑みを浮かべていた。

レオはその一瞬、手にしていたフライ返しの動きを止めた。
頬に残る温もりが、じんわりと皮膚の奥にまで染み込んでくるようで。
ヨルの笑みを正面から受け止めると、ほんの少しだけ、眉が緩んだ。

「……不意打ちは、ずるいな」

小さく呟いた声は、たしかに苦笑だったが──その響きには嬉しさが隠しきれていない。
ほんのり赤みを帯びた耳が、彼の動揺を物語っていた。

それでも、彼はヨルから目を逸らさない。
フライパンの中で目玉焼きがじゅうっと音を立てるのを聞きながら、レオはヨルに向かって少しだけ身を寄せた。

「……もう一回、くれるか?」

低く、静かな声。
けれどその目には、確かな欲と──何より深い愛しさが、真っ直ぐに灯っていた。

ヨルは言葉を返さないままに、同じ場所にもう一度触れる。そして、そのままの距離で耳元に唇を滑らせた。

「焦げちゃうよ、目玉焼き」

コーヒーを入れるためにポットを手に取りながら距離を離した。フライパンの上の目玉焼きは十分に火が通っている。

「……ちっ」

レオは小さく舌打ち混じりに息を吐くと、視線を目玉焼きに戻した。
けれど、その口元はわずかに笑っていた。

フライ返しで器用に皿へと目玉焼きを移しながら、ぼそりと呟く。

「意地悪だな。……余裕な顔して」

その背中越しに、ヨルのいれるコーヒーの香りがふわりと漂ってくる。
静かで温かな朝の気配のなかで、火を止めたレオは、ヨルの方へと再び振り向いた。

「なあ、ヨル。……今日の予定、少し遅らせないか?」

真面目な顔でそう言いながらも、目にはわずかに悪戯っぽさが覗く。
すべてを察したヨルがどう反応するか──それを楽しむように、レオの声はわずかに低く、甘く濁っていた。

「どうして?」

焼き上がったベーコンと目玉焼きが乗るお皿をトレーに乗せてコーヒーと共に、ダイニングテーブルまで運んだ。キッチンカウンターを挟んだ距離でも分かるほど、緩く弧を描いた唇。

「……私のこと、欲しくなっちゃった?」

コーヒーカップに視線を落としたまま、冗談を含んだ声で言葉を返す。

「……ああ。そうかもな」

レオはわざとらしくため息を吐いたあと、キッチン越しにヨルを見つめる。
その目は、静かな冗談を返すには真っ直ぐすぎた。

「そんな顔して挑発するから……自覚あるんだろ?」

ダイニングへ歩いてくる彼の足取りはゆっくりとしたものだったが、その目には熱を帯びたものが滲んでいた。
ヨルの正面に座ると、ふと視線を落とし、手をテーブルに置く。そして、まるで些細な話でも切り出すかのように、穏やかな声で続けた。

「……わざとだろ。そうやって俺のことを揺さぶるの」

カップを手に取ったその指先すら丁寧で、けれどその奥に潜む感情がまるで隠しきれていなかった。
レオはひと口、コーヒーを飲むと、小さく目を細めて──

「答えによっちゃ、今日の予定、本当に遅らせるぞ」

その言葉とともに、口元には静かに笑みが浮かぶ。けれど、その目は本気で、試すようにヨルを見つめていた。

「私に揺すられるの、嫌いじゃないでしょ」

コーヒーを一口含むと、頬杖をついて彼の視線に応えるように真っ直ぐ見つめ返す。なんと答えてやろうかと少し悩んで、甘さを含んだ言葉を用意した。

「私は……待てができないきみも、嫌いじゃないよ」

レオの口元がピクリと動いた。
まるでそれ以上を言わせないように、コーヒーカップを音を立てずに置くと、椅子を引いてゆっくりと立ち上がる。

「……そういうところだ」

苦笑混じりの低い声。
だけどその声色の奥には、明らかに抑えの効かない熱が混じっていた。
ヨルの横に歩み寄り、背後に立つと、ふわりと肩に手を置いて、その耳元に顔を寄せる。

「俺が“待て”できないのは、誰のせいだと思ってる」

囁くような声音。
そしてそのまま唇が、首筋すれすれに落ちていく。けれど触れはせず、じらすように寸前で止まった。

「出発まであと何分だ?」

問いかけながらも、その声音にはもはや予定など眼中にない気配が漂っていた。時間などどうとでもなってしまう、そんな揺るぎない熱が入り混じっていた。

「ひとつお店を飛ばすなら、2時間後……」

耳にかかった声にくすぐったそうに身を捩りながら、振り返って自分から唇を重ねた。行こうと話していた場所がひとつ、予定から外される。

「朝ごはん冷めちゃうよ」

目の前に用意したばかりの湯気を見つめながら、意味をなさない"待て"を口にした。

レオは短く息を吐いて笑った。
触れ合った唇の感触を余韻のように残したまま、ヨルの腰に滑らせた手に少し力を込める。

「冷めても食える」

指先が、ヨルの頬のラインをなぞる。
そしてそのまま、唇をまた重ねる。
今度は、少しだけ長く、少しだけ深く。
まるで、ヨルの“待て”という言葉の意味を完全に奪い去るかのように。

唇が離れたあとも、レオの視線は彼女の目を逸らさない。

「一時間で済ませる。……朝飯は、あとで温め直せばいい」

そう言って、レオは時計もスケジュールもすべて投げ捨てるように、ヨルの身体を抱き上げた。何の前触れもなく。けれど、その腕には躊躇も迷いもなかった。

「……責任取れよ、ヨル。おまえがそう仕向けたんだから」

低く、静かな声。
けれどそこには、限界を超えた男の理性が、とうに崩れ去っていることが如実に現れていた。

「……我慢の効かない、悪い子だね」

抱き上げられて浮いた自分の爪先。彼が履かせてくれた靴下を見ながら、少し笑ってそう言った。彼に身を預けるように、なんの抵抗もしない。

レオはヨルの言葉に、ふっと鼻で笑った。
けれどその笑みはいつもより少しだけ余裕がない。きゅっと腕の力が強くなり、彼女の身体を胸元にさらに引き寄せた。

「"悪い子"でも好きだろ?」

靴下を履かせた足が、今こうして自分の腕の中でぴくりと揺れるのを見て、レオはもう一度小さく息を漏らす。
ほんのわずかな体温の差も、彼にとっては理性を削る材料になっていた。

「……もう離してやらない」

そう囁く声は低く、いつもよりもずっと熱を孕んでいる。
彼女を抱えたまま、ゆっくりと寝室へ向かう足取りは、荒ぶる欲を押し殺しているようで、でも確かにその歩みは止まらなかった。

ベッドの縁に腰を下ろすと、そのまま彼女をそっと膝の上に座らせる。冷たさの残るヨルの手を取って包み込むように握った。

「……おまえだって俺を試す、悪い子だ」

視線は交差したまま、けれどその声には、どこか困ったような、けれど確かな愛しさが含まれていた。

「そうだね」

少し嬉しそうに笑い声を漏らすと、レオの首に腕を回した。彼の胸に全てを預けるように顔を埋める。

「きみの香り、安心する」

何度かゆっくりと呼吸して、胸元から見上げると視界に入った喉仏にリップ音を立ててキスを落とした。

レオの喉が、ごくりと小さく上下する。
触れた彼女の唇に、反射的に全身が反応してしまったのが自分でも分かった。

「……おまえは、ほんとに……」

何かを言いかけた声は、吐息にかき消された。
彼女の腕の重み、温もり、香り──全部が甘すぎて、理性の皮を一枚ずつ丁寧に剥がされていく。

「……ヨル」

腕の中に抱いた彼女の細さを、温もりを、確かめるようにもう一度強く抱き寄せる。
その小さな唇が残した熱が、喉元に焼きついて離れない。

「安心するなら……ずっとここにいればいい。どこにも行くな」

まるで懇願するように、けれど決して弱さを見せない口調で。そして彼はヨルの頬に手を添え、彼女の額にそっと額を重ねた。

「……それとも、もっと安心させてやろうか?」

その言葉に込められたのは彼女への強すぎる想い。指先が彼女の背中を辿り、膝の上でその体温を抱え込むように──静かに、けれど確かに独占するように。

「おまえの全てに俺の匂いを残したくて仕方ない」

レオの声は低く、熱を帯び、どこかに切なさを孕んでいた。ただ与えるためじゃない。ただ欲しいだけでもない。彼女のすべてを手に入れて、ヨルと“同じになる”ための、どうしようもない欲。

「……きみのことが好き」

抱きしめられた窮屈な暖かい檻の中で、ヨルは幸せそうに瞳を閉じる。

「良い子でも、悪い子でも。きみがレオである限りずっとね」

彼の首の後ろで組んでいた指を解くと、そのまま滑らせてレオの両頬に触れた。そして優しく口付ける。開いた瞳は彼を離さないまま、愛情を絡めて深く重ねる。

レオは、その口付けに何の躊躇いもなく応えた。触れ合う唇の温度、指先の柔らかさ、ヨルの言葉ひとつひとつが、まるで心臓を撫でるように染み込んでいく。

「……ヨル」

唇が離れた瞬間、呼吸の合間にこぼれたその名は、どこまでも優しく、どこまでも切実だった。肩の力が抜けていくように、抱き締める腕の力が少しだけ緩む。その代わりに、もう一度額をそっと彼女に重ねた。

「どうしてそんなに……俺にとって完璧なんだ、おまえは」

息が触れ合う距離で、彼は目を伏せた。
胸の奥で渦巻く独占と執着、彼女の愛に溺れた不器用な男の本音が、静かに漏れ出していく。

深く息を吸い、震えを抑えるように目を閉じた。そしてそっと彼女の両頬に手を添え、今度はレオの方から唇を重ねる。

深く、穏やかで、熱を帯びた口付け。欲でもなく、衝動でもなく、確かに「愛」そのものを込めた、誓いのようなキス。

「……俺もおまえのことが好きだ、ヨル」

彼の声はかすかに震えていたけれど、確かにあたたかく、ひたむきだった。まるで、この世界に彼女しかいないと言っているかのような──どこまでも深く、どこまでも愛しい声で。