食器を洗い終えたキッチン。電気を落とした部屋には、ボードの下の小さな灯りだけが柔らかく灯っていた。

静けさの中、カウンターに手をつきながら小さく息を吐くと、レオは手元の書類に目を落とす。薄い紙がぱら、と音を立ててめくられた。明日の資料に見落としがあったようで、丁寧に内容を確認し直している。

部屋の奥では、寝巻きに着替えたヨルが足を止める。ベッドに向かう途中、レオの灯りに気づいたのだ。

静かに歩を進め、ダイニングテーブルの前に立つ彼の正面の席に腰を下ろすと、頬杖をついたまま黙って彼を見上げる。普段とは違う、眼鏡越しの彼の真剣な表情を楽しむように。

「……何か忘れ物?」

邪魔にならないように、だが彼の姿をしっかり視界に収めたまま問いかける。普段とは違いレンズを挟んだ黒い瞳。どこか知的な魅力を感じるその姿に、ヨルは僅かに目を細めた。

レオは手元の書類から視線を逸らして、ヨルの姿を捉える。机に頬を預けてこちらを見つめる彼女の目が、どこか楽しげに揺れているのを見て、ふっと苦笑を漏らした。

「明日の朝に提出する資料の確認だ。少しだけ、抜けがあって」

そう答えながらも、視線は彼女から離れない。
まるで「本当にそれだけか?」と問い返しているような、不思議な圧を含ませながら。

「……眠れなかったのか?」

視線をそらさずに問いかける。彼女のまなざしが柔らかくて、少しだけ目の奥が熱を帯びた。

「ううん、寝室に来ないから気になって……」

そして、口角を上げると少しだけレオの方へと身を乗り出した。頬杖をついていた手をこそこそ話しの形で口元に添える。声のトーンを落として、彼にだけ届くような囁き声で続けた。

「それに、私の恋人は眼鏡姿も素敵だなって見惚れてたの」

一瞬だけレオの指が止まり、視線がヨルの瞳に真っ直ぐぶつかった。
言葉の意味を咀嚼するように数秒の沈黙があって、彼の口元が微かに緩んだ。

「……そんな理由で見つめられたら、仕事が手につかなくなるな」

書類の隅を指で叩きながら、わずかに困ったような、それでもどこか嬉しそうな声で返す。

「眼鏡なんてただの矯正器具だ。格好いいも悪いもないだろう」

そう口にしながらも、彼の頬にはうっすらと照れの色が浮かんでいた。ヨルのまなざしの熱を感じるたび、平静を装う綱が少しずつ溶けていく。

「格好いいよ。知らないきみの一面を見れた気分」

もう一度頬杖をつく形に戻ると、ゆっくりと視線を這わせる。スクエア型の細身のフレームは大人っぽい印象を底上げしていた。だがそれと同時に、僅かに赤くなった彼の耳が可愛らしくて小さな息を漏らす。

「普段見れない分、少し特別に感じるね」

レオは小さく息をついて、わざとらしく視線を資料へと戻した。
だが耳の赤みは隠しきれず、ヨルの言葉を受けて、わずかに肩が揺れていた。

「……特別って言うほどのものでもない」

淡々と返すその声に、どこか甘さが滲む。ヨルの目にだけ映るその変化に、彼は抗う気配も見せず、むしろ静かに受け入れていた。

「だがおまえがそう言うなら、悪くはないか」

再び視線を上げると、今度は彼のほうからヨルの眼をじっと見つめた。机越し、柔らかな電球の光に照らされて揺れる彼女の表情を、いつまでも見ていたいというような目で。

「……ねえ、レオ」

ヨルはそんな彼の様子に優しく微笑んだ。
そして静かに席を立つとテーブルの前に立つ彼の背後へ移動した。資料を手に持ったままの彼の腕の間に自分の腕を滑り込ませて腹の前で指を組む。その仕草は、どこか甘えているようだった。

「きみの好きなことは何?」

レオの背中に頬をつけ、体温や心音、呼吸を感じる。唐突にした彼女からの質問には、彼のの知らない面まで自分のものであって欲しいという可愛い独占欲が滲んでいた。

レオは、手にしていた資料から視線を外さずに数秒黙った。そして、その背中に伝わる体温と細く柔らかな腕の重なりに身を預ける。

「……急にどうした」

眼鏡の奥の瞳が、ふと遠くを思うように細められる。資料を静かに机に置くと、背後のぬくもりを確かめるように、自分の手をヨルの指の上に重ねた。

「好きなこと、か……」

レオは少し間を置いてから、ゆっくりと口を開いた。

「静かな場所。あたたかい飲み物。朝焼け」

そこで一度だけ、息を吐く。

「あと……おまえと、こんなふうに過ごす時間」

それは、誰にでも言えるようなことじゃない。
けれど、ヨルにだけは何の照れも見せず、
ただ、淡々と、当たり前のように語られる。

「それが俺にとっての“好きなこと”」

そう言って、レオは重ねた彼女の手をそっと撫で上げた。静かで、穏やかで、何よりも深い想いを込めて。

「……じゃあ好きなものは?」

居心地が良さそうに静かに瞳を閉じて耳を傾けているヨル。彼が言葉を発するたびに背中に伝わる振動を大切に感じていた。

「好きな“もの”、か」

レオは少しだけ口元を緩めて、背後の彼女を感じる。ただそこにいて、自分に触れて、耳を傾けてくれる──それだけで、胸の奥がじんわりと温まっていく。

「……革の匂いのする小物とか、古い腕時計とか」

ぽつ、ぽつ、と話す声は落ち着いていて静かだった。けれど、どこか照れくさそうでもある。

「道具をちゃんと手入れして、長く使うのが好きだ……」

そして一瞬の間を置いて、そっと付け加える。

「……それと、ヨルの声」

呼吸するように自然な言い方だった。
ただの“もの”じゃない、“彼女”の一部として、好きだと言える部分。

「……本当は全部好きだ。だが、声は特に落ち着く」

背中で感じる、彼女のぬくもり。
耳元にかすかに届く呼吸。それらに包まれながら、レオは小さく笑う。

「今みたいな静かな夜に、ずっと聞いていたいと思う」

ヨルは嬉しそうに微笑むと身体を離して正面からレオの瞳を見据えた。柔らかな灯りの中、眼鏡の金具が彼女の心境のように輝いて見える。
彼女は一歩距離を縮め、好きだと言ってくれた声で一番聞きたかったことを口にした。

「なら、......好きなひとは?」

レオはその問いに、一瞬まばたきをした。

ヨルの瞳がまっすぐに自分を見上げている。
小さな震えも、期待も、全部わかってしまう距離。

──逃げ道なんてない。

レオは静かに息を吸い、そっとヨルの頬に手を添えた。その手はあたたかく、指先は微かに震えている。

「……おまえ以外にいると思うか?」

低く、穏やかで、真っ直ぐな声。

「声も、顔も、仕草も……甘えるときも、意地悪なところも、全部知ってる」

言葉を重ねるたびに、その目が優しさで満ちていく。ヨルを見ているその視線には、一切の迷いがなかった。

「……ヨルが、俺の“好きなひと”だ」

そして、唇をそっと彼女の額に落とす。
それは優しく触れるだけの温かさを残すキスだった。

唇が離れるとヨルは嬉しそうに彼を見つめ返す。

「知ってる」

その一言に、レオの目元がわずかに緩んだ。

「……なら、聞くなよ」

苦笑まじりの声。
けれどそこに滲んだ照れと安堵が、
何よりも正直な感情を物語っていた。

「……聞きたかったの」

ヨルはそう言って、彼の胸にそっと身体を預けた。ぴたりとくっついた彼女のぬくもりに、レオはそっと腕を回してくれる。

「レオの声で、ちゃんと聞きたかった」

ぽつりと落ちたその声は、甘えているようで、少しだけ震えていて、どこまでもまっすぐで、切実だった。

レオはそのまま彼女の髪に顔を埋めるようにしながら、低く、深く、たしかに囁いた。

「……何度でも言うよ。おまえが望むなら」

そして、もう一度。

「好きだよ、ヨル」

静かなリビングにレオの柔らかな声が響き、静かに重なった唇がふたりだけの時を大切に刻んでいった。