祭りの会場から少し離れた交番仮設本部、その裏手にある小さな休憩スペース。
扇風機がうなるだけの簡素なプレハブ小屋の中、数人の警察官たちが休憩時間を共有していた。コンビニの袋から引っ張り出した冷えたペットボトル、氷が溶けかけたアイスコーヒー。誰もが汗を拭いながら、暑さと疲れに肩を落としている。
「ねえねえ、レオさん居たの見た?」
不意に声を上げたのは、署内でも社交的なことで知られる女性警官のミナミ。
「え、見た!射的がある通りの奥のほう……あれ絶対、噂の彼女さんでしょ」
彼女の問いに、顔を挙げると口元を緩める同僚。
「あの異質な美しさは、遠くからでもどうやったって分かるって」
続けて男性警察官もため息をつくように言うと、すぐに年配の男性巡査が口を挟んだ。
「お前、そんなこと言ってるとあいつにしばかれるぞ」
休憩所に僅かな笑いが弾ける。
「そういやアンタ、ヨルさんに声かけたんでしょ?...なかなかやるわね!」
アイスバーの棒を口にくわえながら、にやにやと隣の若い後輩の背中を叩くミナミ。
「……それ誰から聞いたんすか、ミナミさん!!てかその話どこまで広まってるんすか!?」
急に話を振られ、後輩はアイスを半分噛み砕いたまま声を詰まらせた。
「署内全体だな」
ぽつりと口を開いたのは、年配の警官。休憩スペースにいた数人がどっと笑う。
「もっぱらの噂じゃん、命知らずの新人くん」
「知らないやつの方が少ねぇって」
別の若手署員が乗っかるように声を上げる。
「違っ……いや違わないっすけど……!!」
後輩くん一瞬で顔を赤くし、紙コップの麦茶を両手で持ち直した。
「ナンパとかじゃなくて、あの時は……熱中症とか、気になっただけで……でも、まさかレオさんの……彼女さんだとは!」
その瞬間、場が爆発するように湧いた。
「んで、やっぱ近くで見ても綺麗だった?」
「はい、本当にもうめちゃくちゃ綺麗でした」
「へぇ。それで声かけたんだ?」
「ち、違いますって!!」と慌てる後輩に、皆が笑いながら缶コーヒーやお茶を口へと運ぶ。
そんな大盛り上がりの中、ミナミがふと表情を緩めた。
「でもさ、いいよね。あの2人、なんか…いい意味で釣り合ってるというか。レオさん、今まで誰かとあんなに自然に並んで歩いてるとこ見たことなかったし」
「同感。ちょっと見てて羨ましくなる感じだったな」
「ヨルさんって、綺麗なだけじゃなくて…雰囲気がすごいよな。いるだけで周囲の空気が変わるっていうか」
「わかる。あの落ち着き、あれで歳下なんて信じらんねえよな……」
「ナギサちゃんの件もあったし、触らぬ神に祟りなしだよね。まあ2人の空間尊すぎて、触るどころか近寄る気も起きないけど」
「レオさんがずっと片想いしてたって噂は、マジなんですか?」
「マジだよー。警務課の佐野さんが言ってたもん。あの溺愛レベル半端じゃないって」
笑い声がひとしきり広がったあと、ふいにミナミがぽつりと呟く。
「ま、あれだけ無骨なレオさんが、あんな顔するんだもん。……ほんと、いい恋してんだね」
誰もがふっと笑みを浮かべたその瞬間、詰所の無線が鳴る。
《詰所より各班へ。南通り東側、混雑につき誘導応援を要請》
「っと、出番みたいだね。新人くん、もうレオさんの彼女に突撃すんなよ?命が惜しけりゃ」
「も、もうしませんってば……!」
扇風機のぬるい風と夏らしい活気の中、軽口を交わしながら、再び制服姿の警察官たちは夜の喧騒へと戻っていった。
───
提灯がぶら下がる通りのあちこちから、子どもたちのはしゃぐ声が響き、香ばしい匂いが入り混じっていた。
ざわめきが、ひどく近い。
どこもかしこも人で溢れていて、浴衣のすそがすれ違うたびに、かすかな風が肌をかすめる。
右隣を歩くヨルの姿が、ふと見えにくくなった。浴衣姿が人混みに紛れたその一瞬、レオは無意識に手を伸ばす。
「……離れるな」
掴んだのは、華奢な手首。
一拍遅れて、その手をゆっくりと握りしめる。
掌から伝わる熱と、少しの震え。
祭りの喧騒なんて、どうでもよくなるくらいに、そこだけがやけに静かだった。
「……少し抜けよう」
静かに囁いて、彼女の手を引く。
焼けた石畳に浴衣の裾が擦れる音と、どこか懐かしい、夏のにおいがした。
「うん」
どこか不安げだった表情が、彼の一言でほんの少し明るくなる。優しく導く手は安心感を与え、人々の間を縫ってざわめきが遠のいていく。
「……ヨル」
歩幅に合わせて速度を緩め、小さく息をついて足を止めるレオ。
人通りがまばらになった通りの端――夜店の明かりもここまでは届かず、蝉の声がかすかに耳に残るだけだ。
「……悪い、大丈夫だったか」
そう言いながらも手は離さない。
指先に感じる体温がやけに意識に残る。
見上げれば、ほんの少し傾いた三日月が、黒い空に溶けていた。
地面には風鈴の音がかすかに落ちてきていて、少しずつ、喧騒から解放されていく気がした。
木々の隙間からこぼれる提灯の明かりが、ヨルの浴衣を柔らかく照らしている。その横顔をちらと盗み見て、レオはほんのわずかに口元を緩めた。
「……浴衣姿、綺麗だ。よく似合ってる」
ぽつりと、それだけを呟いた。
照れ隠しでもなく、社交辞令でもない。ただ、事実としてそう思ったから。
突然の純粋な褒め言葉に、少し困ったように眉を下げて笑うヨル。掴まれたままの手首を反対の手でそっと包み込むと、彼の視線を自分へと向けるように優しく引いた。
「レオの"月"になれてる?」
それはレオが浴衣の色を選んだ時に例えた言葉。静かな夜風が吹き抜けて、彼女の問いがふわりと胸の奥に降りてくる。
視線を合わせると、そこには冗談めかした笑みも、気取った仕草もなく――ただ、まっすぐな目があった。
「……ああ。なれてる」
言葉を選ぶまでもなかった。
それがどれだけ特別な意味を持っていようと、今の気持ちに偽りはない。
「……ずっと見上げていたいくらいだ」
少しだけ照れた声になった。
けれど、そらさなかった。ヨルの手のぬくもりごと、この瞬間をちゃんと受け止めたくて。
ヨルはその言葉に嬉しそうに瞼を落として微笑んだ。手に抱いた猫のぬいぐるみに視線を落とすと静かに口を開く。
「レオ...」
彼女が言葉を紡ぎかけたその時、会場内に花火開始を知らせる事前アナウンスが響いた。
《会場へお越しの皆様へ、この後20時より打ち上げ花火が開始いたします。混雑が予想されますので、お気をつけてお楽しみください》
「……そろそろ、だな」
静寂を切り裂くようなマイクの声に、ふと空を見上げ少しだけ肩の力を抜く。
ヨルの声の続きが気になりつつも、それを無理に促すことはしなかった。
代わりに、もう一度彼女の手を握り直すと、柔らかい指先のぬくもりが、鼓動とともに伝わってくる。
「高台に行こう」
さりげないようでいて、どこか意志の込もった言葉。ここから少し離れた神社の階段を登れば、夜空が開けた場所がある。
人混みから少し距離を置いた、ふたりだけの時間を過ごすにはちょうどいい場所だ。
静かに頷く彼女の手を引いて、石段の先、高台へ続く小道をゆっくり歩いていく。
葉擦れの音、虫の声、誰かの笑い声が遠くで聞こえ、少しずつ人の気配が遠のいていった。
「歩きにくくないか?」
小さな気遣いのつもりだった。
けれどその声には、どこか彼女の一挙手一投足に意識を奪われている不器用な優しさが滲んでいる。
「大丈夫」
夜の闇に溶けそうな静かな声。繋いだ手を離さないように2人でゆっくりと、だがどこか楽しそうに階段を進んだ。
やがて視界が開け、町を見下ろせる高台へとたどり着く。木々の間から空が抜けて、視界の先には街の灯りと、祭りの喧騒が広がっている。
誰もいないその場所に立ち止まり、レオはヨルを見つめた。
「……ここだ」
遠くの山影を背景に、静かに風が抜けていく。その瞬間薄暮に染まる夜空の向こう、最初の花火が――音もなく、ふわりと咲いた。
それはヨルにとって初めて見る花火。夜空に輝く光の花。黒曜石のような彼女の瞳には、その景色が美しく反射している。
「...綺麗だね」
続く大きな音に、握る手には少し力が籠る。だがそれでも彼女は目の前に広がる夜空から目を離さなかった。
「……ああ、綺麗だな」
レオは静かに頷きながら、目の前の花火ではなく、その横顔を見つめていた。
ぱん、と弾ける音に合わせて、色とりどりの光が彼女の頬を照らす。
その表情に宿る無垢な驚きと、ほんのわずかな緊張――そして、確かにそこにある「今」のきらめき。
「花火、初めてなんだよな……」
呟くように言いながら、そっと彼女の手に指を絡める。「怖くないか?」と尋ねる代わりに、彼の体温が問いかけていた。
夜風がふたりの髪を揺らす。
空には新たな火の花が咲き、静かな時間を、音と光が優しく彩っていく。
「きみと......レオと一緒に見られて良かった」
その声は、花火の音に紛れながらもレオまで静かに届く。絡めた指からは心の底から溢れた喜びが伝わってきていた。
「……そうだな」
その言葉は短くて、不器用だったかもしれない。けれど、握る手から伝わる温もりと、その瞳に宿る真剣さが、全ての想いを代弁している。
ふいに、夜空に大輪の花が開いた。
真紅と金の光が、まるで祝福のようにふたりを包み込む。
その瞬間、レオは視線を上げたまま、ぽつりと口を開く。
「……来年も、一緒に見よう」
間を置いて、視線を横へ。
月明かりと花火の光を受けたヨルの瞳が、ゆっくり彼を映していた。
「来年も、その先も……俺の隣にいてくれ」
それはまるでプロポーズのように、まだ見ぬ先の未来を約束する言葉。花火に照らされ輝く瞳はヨルだけを見つめている。
「レオ...」
それは言いかけて噤んだ続き。
花火の音にかき消されることがないよう、そっと。身長差を埋めるために背伸びをして耳元まで寄った。
「...きみが好き」
その直後今までで一番大きな花火が夜空に舞い散る。レオの目が、わずかに見開かれた。
その耳元に届いた囁きは、音もなく彼の胸の奥へと滑り込み、心臓を撃ち抜く。
一瞬で視界が滲むような、熱くて甘い衝撃。
頭ではなく、身体が先に反応していた。
「……もう一度言ってくれ」
気づけば、ヨルの手を引き寄せていた。
花火の光に照らされる横顔に、焦がれるように視線を注ぎながら、低く囁く。
「……ちゃんと、聞きたい」
その声はかすれ気味で、けれどいつになく真剣で、どこまでも優しかった。
彼女の言葉を、音で、温度で、心で――確かに受け取りたかった。
「...好き」
ヨルはもう一度繰り返す。そしてそのまま彼の頬に近づいて優しく口付けた。
「愛してるよ、レオ」
さっきよりもずっと深い愛の言葉。花火の音が霞むほどに、優しく甘く響く。触れれば壊れてしまいそうな笑顔で、そして今にも泣き出してしまいそうな潤んだ瞳で。
「...だから、私から離れないで」
レオは、何も言えなかった。
口を開けば感情が溢れすぎて、言葉にできなくなるのが分かっていた。
そっとヨルの背中に腕をまわし、その華奢な身体をしっかりと抱きしめる。
まるで、もう二度と手放すまいと誓うかのように。
「離れない。……絶対に」
その声は低く、震えていた。けれど確かだった。心の奥から湧き上がる決意と、彼女へのすべてを込めた、誓いのような囁き。
そしてもう一度、顔を上げると――
「……愛してる。ヨル」
まっすぐな視線でその名を呼び、今度はレオの方から口付けを落とした。
漂うのは火薬と夏の香り。
打ち上がる光がふたりの影を揺らし、夏の夜の静けさに優しい余韻だけが花火と共に溶けていった。
