陽が落ちるのが遅くなった夏の夕方。
蝉の声が遠ざかり、空が橙から群青へと滲みはじめる頃、アパートの玄関が静かに開いた。控えめな音を立てて革靴が脱がれ、金属の鍵がカラリとトレーに落ちる。
「……ただいま」
その声には少しだけ疲労の色が混じっていたが、どこか柔らかな響きもあった。
レオがリビングに姿を見せる。制服姿のまま、ネクタイを緩め、Yシャツの袖を一折り。額には汗の名残が微かに残り、日に焼けた肌に夏の輪郭を感じさせた。
「おかえり、レオ」
リビングに入ると、いつも通りの静かな気配。
ソファの端に腰掛け、本を読んでいたヨルが、レオの気配に気づいてふと顔を上げる。
ページから目を離すと、その瞳に静かな光が宿る。レオを見るその表情は、どこか安堵したようで、ふんわりと微笑んだ。
「……なあ、ヨル」
気持ちが波立たないように、息を整えるようにしてレオは近づき、彼女の隣に腰を下ろす。
外から持ち帰った肌に残る熱気と、ヨルから漂う涼やかな香りが交差する。
何気ない仕草で肩を回しながら、小さな独り言のようにぽつりと呟いた。
「今年、ようやく休みなんだ。……夏祭りの日」
一拍。ヨルが首を傾げる気配を感じながら、レオは言葉を続けた。
「……だから良ければ。花火……見に行かないか」
口に出してしまえば簡単な誘いだったはずなのに、その声はいつもより少し低く、そしてどこか照れたような響きを含んでいた。
真面目な彼がこういう話題を切り出す時、何度も言葉を選んで、タイミングを計っていたことをヨルは知っている。
「花火...?」
ぽつりと返すヨルの声は、ふいを突かれたような、どこか夢をなぞるような響きを帯びていた。
レオと共に過ごすようになってから、これが三度目の夏。それでも、今まで一緒に花火を見に行ったことはなかった。いつもひとりで遠くで聞こえる花火の音に耳を澄ませていた夏祭りの夜。
「...行きたい」
ヨルは、僅かに瞬きをして、そして静かに頷いた。その声に、ほんの少し震えたような喜びが混ざっていることを、レオは見逃さなかった。
ヨルは彼の手をそっと取る。確かめるように指を絡め、少し目を細めて、真っ直ぐに彼を見た。
「レオと一緒に、見たい」
その言葉に、胸の奥がじわりと熱くなる。
指先に絡むヨルの細くてあたたかな手、その感触が、まるで何よりも確かなものに思えて、俺は黙って彼女の手を包み込んだ。
ヨルの目は、いつになく柔らかく澄んでいた。
まるでその視線だけで、すべてを受け入れてくれるような優しさがそこにはある。
レオは小さく笑い、肩の力を抜くように頷いた。
「……ああ。行こう」
去年も、その前の年も仕事で、一緒に行くことは叶わなかった。皆が楽しむ夜を1人寂しく待たせていたのに、それでも文句ひとつ言わずにいてくれたヨル。
レオはそっと指先に力を込め、ヨルの手をもう一度、しっかりと握り返す。
そして、そのまま少し間を置くと迷いながらも、ずっと頭の片隅にあったことを言葉にした。
「祭りの日……浴衣、着てみてくれないか?」
そう言った瞬間、自分でもわかるほど、レオの声が小さくなった。
目線も少しだけ逸らしてしまう。けれど、それでも伝えたかった。照れくさくて、でもどうしても見たくて、ずっと前から心にしまっていた願い。
「おまえが浴衣を着たら……きっと綺麗だろうなって、ずっと思っていたんだ」
その言葉に、ヨルはふっと微笑む。
真面目で不器用な彼が、黙って心の奥にしまい込んできたささやかな願いを、今ようやく差し出してくれた。
不器用な彼が、非番の日を確認してひっそりと喜び、自分を夏祭りに誘って、浴衣を着て欲しいと控えめにお願いをしている。その全てが愛おしくて、思わず彼女の口元は緩んでいた。
その微笑みを隠すように、ヨルは繋いでいた手を引き寄せると、レオの胸にそっと額をあずける。
「...いいよ」
そして優しい声で快諾すると、絡めた指を離して首元に手をかけ彼の耳元に寄る。
「きみも一緒に着てくれるなら」
一瞬、耳の奥が熱くなる感覚。
くすぐったい吐息混じりの声が触れたところから、じわじわと火が灯るようだった。
「……おまえな」
小さく呟いて、けれど拒む理由なんてあるはずもなくて。ヨルの笑みも、くすぐるような声も、全部が嬉しくて、ちょっと悔しいくらいに心をかき乱されている。
「言っておくが……俺が似合うかどうかは保証できないぞ」
それでも、彼女と並んで歩く姿を想像する。
浴衣を着て、屋台の灯りの中を、手を繋いで。――想像するだけで、自然と頬が緩んでいた。
「……約束だからな」
低く笑いながら、そっと彼女の背に腕を回す。ぴったりと抱き寄せながら、彼女を包み込むようにして、幸せそうに目を細めた。
静かな夜のひと時、お互いの呼吸と秒針の音。
「...ねえ、レオ」
レオの胸に頬を寄せたまま、彼から伝わる心拍にゆっくりと息を吐くと、ヨルは静かに口を開いた。
「私、きみとこうやって少し先の約束を交わすのが好き」
週末の土曜日、約束の夏祭りの夜に想いを馳せながら彼女は静かに呟く。
「未来の自分が見えて安心できるから」
それは温かくどこか寂しい声。レオは、ヨルの言葉の裏にある小さな翳りを感じ取ると、少しだけ瞼を伏せた。
静かに鼓動を刻む彼女の体温を、腕の中でしっかりと確かめるように抱き寄せる。
「……俺も、同じだ」
そう返しながら、言葉を探すように少し間を置く。彼女が“未来を信じたい”と願うその声音に、胸が締めつけられる。
「おまえが隣で笑ってくれてる未来を……俺はずっと思い描いている」
耳元で低く、噛みしめるように囁く。
それは不器用な彼なりの精一杯の言葉だった。
「……だから、これからも沢山の約束をしよう。小さくても、くだらなくてもいい。全部、叶えてやるから」
まるで今掴んでいる幸せを噛み締めるように、そっと瞳を閉じたヨル。彼の声の温度、腕の中の静けさ。そのどれもが、今の自分を支えてくれるものだった。
「...うん。ありがとう、レオ」
そう静かに呟くと、不安が解けたようにゆっくりと身体を離して顔を上げた。その口元には柔らかな笑みが浮かんでいる。
「花火、楽しみにしてる」
そして彼女はふと思い出したように、いつもの悪戯な瞳でレオを見つめ、少し首を傾げた。
「...レオは、私に何色の浴衣着て欲しい?」
見上げたヨルの微笑みに思わず目を細めて小さく息を吐くレオ。照れくさそうに頬をかきながら、少しだけ目線を逸らして言葉を紡いだ。
「……白、かな」
言葉を選びながら、ヨルの瞳を見つめ直して続ける。
「おまえには、薄い色が似合う。月みたいに、綺麗で……どこか、儚げで」
そう言いながら、指先でそっとヨルの髪の先を掬った。それは、今すぐ彼女に触れて確かめてしまいたくなったレオの愛おしい仕草。それから口元に僅かな笑みを浮かべる。
「……でもきっと、ヨルは何を着ても綺麗だ」
目を細めて微笑むその表情には、心の底からの愛しさがにじんでいた。そんな彼の言動ひとつにときめく鼓動と広がる幸せ。ふっと目元を緩めると静かに口を開くヨル。
「...もし私が月なら、きみはそれを包んでくれる夜空だね」
レオの例えを借りて口角を上げると、両手で彼の頬を包み込み額と額を合わせた。
「きっとレオには、紺色の浴衣が似合うよ」
ふいに触れられた頬から、レオの身体に微かに走る熱。彼女の柔らかな掌と、すっと寄せられた額の距離に、いつもより少し強く心臓が鳴る。
「……ヨル」
その名を、小さく、息を吐くように呼んだ。
紺色が似合うと言われたことよりも、それを真っ直ぐに伝えてくれることが、何よりも嬉しくて。
ゆっくりと手を伸ばし、彼女の背中に優しく腕を回す。抱きしめる力は強すぎず、けれど確かに想いを伝えるように。
「なら、俺は……おまえを包む夜空として隣にいる」
額を合わせたまま。
その言葉に込めたのは、変わらぬ未来の約束。
「夏の夜にふたりで歩くには、丁度いい組み合わせだな」
そんな詩的な彼の言葉に、ヨルは僅かに笑みをこぼす。そして、視線を交えたまま嬉しそうに
優しく口付けた。
「...土曜日が待ち遠しい」
唇が触れる一瞬の温もりに、レオは目を細めた。その何気ない仕草ひとつで、心の奥が満たされるような、静かな幸福感が広がっていく。
「……ああ、そうだな」
ほんの少しだけ抱き寄せる腕に力を込め、彼女の体温を確かめる。
仕事に追われ、すれ違ってばかりだった夏。ようやくふたりで迎える夏の日が、こんなにも愛しい。
「ずっと遠かった夏が、やっと手の届く場所に来るんだ」
少しだけ低くなった声でそう囁くと、照れを隠すようにヨルの髪にそっと手を伸ばし、大切に優しくなぞる。
「……だから、ちゃんと隣にいてくれよ」
そして穏やかな笑みを浮かべながら、ヨルの額に軽くキスを返した。
