まだ夕暮れには早い午後の空。冬の冷たい風が頬を撫でるなか、レオは制服の襟を立てて歩いていた。予想外に捜査が早く片付き、今日はもう上がっていいと言われた時、自然と頭に浮かんだのは、家に残してきたヨルの顔だった。
ポケットに手を突っ込んで、ひんやりとした空気を切りながら歩きながら、ふと思い出す。今日が“あの日”だということ。

……何してるだろうな

考えたその瞬間、自然と口元が綻ぶ。
普段ならきっちり「帰る」と一報入れるところだが、今日はあえて黙っておくことにした。

エレベーターを上がり、自宅の扉の前に立つ。
そっと静かにドアを開けると、玄関から漂ってきたのは──甘い、ビターなチョコレートの香りだった。

リビングには灯りがつき、キッチンの方から小さな物音。
足音を忍ばせ、壁に身を寄せて覗くと──そこには、台に広げた器具と材料に囲まれながら、真剣な顔でチョコレートを扱っているヨルの姿があった。

思わずレオの口元が緩む。

可愛らしいエプロンと白い指先には少しチョコの跡。前髪が頬にかかっていて、何度か手で払っている。
明らかに一生懸命な姿。
レオは、しばらくその光景に見入って──たまらなくなって、声をかけてしまった。

「……何してる」

声をかけた瞬間、ヨルの身体が小さく跳ねた。
その手元にあったボウルがぐらりと傾き、まだ熱を残したチョコレートが、トロリと彼女の手元から滑り落ちる。

「...レオ?」

驚きの表情で見上げるヨル。予定より2時間ほど早い帰宅、レオが連絡もなしに帰ってくるのはあまりに珍しい。目を見開いて彼の存在を認識するのと同時に溢れたチョコレートの行方を追うヨル。

「やっちゃった...」

ボウルを支えていた左手、反射的に受け取ろうとした右腕、流れ落ちた両脚。そして調理器具で弾け飛んだ頬と首。エプロンで守られた胴以外、彼女は全身チョコレートまみれになってしまっていた。

足元で落ちたボウルがカランと乾いた音を立てた。甘い香りが一層濃く広がる中、レオは一瞬、固まって──そのまま思わず息を漏らす。

「……悪い、驚かせるつもりはなかった」

ヨルの視線の先を追って、レオも足を止めた。ボウルから滴ったチョコレートの跡が、白い床に点々と残っている。湯煎していたんだろう。熱はもう落ち着いてるとはいえ──

「火傷はしてないか?」

思わず声が低くなる。焦ってヨルに歩み寄ると、彼女の腕や脚に目を走らせた。赤くなっているところはない。けど……彼女の白い肌に、こってりとまとわりついた濃い色のチョコが妙に生々しくて、喉の奥がひどく渇いた。

彼女が手間をかけて作っていたであろうものを、俺の不用意な一言で無駄にしてしまったというのに、どうしてこんなにも、愛しさと欲が入り混じる。

「……チョコ、無駄になっちまったな」

絞るような声でそう言いながら、指先を伸ばした。彼女の細い手首。チョコレートで汚れたその肌に、そっと触れる。

「けど──」

唇に、甘い香りのする指先を寄せる。

「……俺には、こっちの方がずっと贅沢だ」

そう呟きながら、そのまま私の指を口に含んで、舐め取るレオ。
「ちょっと待って...」
ゆっくりと、なぞるように舌を這わせ掬い取っていく彼の姿に思わず瞳が揺れる。

レオはそのまま口を離さず、ゆっくりとヨルの指の甘さを味わうように舐め取っていく。舌先ですくい、唇でふわりと包み込みながら、丁寧に、惜しむように。

「……待たない」

低く押さえた声でそう呟きながら、今度はゆっくりと彼女の手のひらへと唇を移す。焦らすように、熱を帯びた舌先で指の間をなぞり、甘さとともに彼女の体温を確かめるように味わっていく。

「無駄になったなんて、おまえに言わせるわけにいかないだろ」

顔を上げたとき、その黒い瞳はまっすぐにヨルを見ていた。強引なはずなのに、そこに宿るのはただの欲望だけじゃない。失望させたくない、悲しませたくない、そんな不器用な誠実さだった。

「全部、俺に食べさせてくれ」

そしてチョコレートの滴る脚へと目を移すと、彼はふっと短く息をついてから、まるで目の前に宝物でもあるかのような丁寧さで、膝をついた。まるで償うように──いや、それ以上に、彼女を慈しむように。

「……次は、ここだな」

低く囁く声とともに、唇がそっと、チョコで汚れた膝に触れた。

「...こんなはずじゃなかったんだけどな」
彼が残していく熱に身悶えながら転がる調理器具へと目を逸らす。

腕も、脚も、頬から喉元まで。まるで自分自身が彼へ贈るためのチョコのように、甘く仕上がってしまった。

レオは彼女の視線の先にある散らばった調理器具を一瞥したが、すぐにまたヨルへと目を戻した。濃くとろけたチョコの艶と、彼女の白い肌が作り出す対比に、思わず喉が鳴らす。

レオの手がそっと、彼女の太腿を撫でる。その指先はいつも通り力強く、でもどこか戸惑うように慎重だった。ヨルの脚に流れたチョコをひとすくい舐め取ると、ほんの一瞬、唇の端に笑みが浮かぶ。

「……俺にとっては、これ以上ない仕上がりだ」

ゆっくりと立ち上がると低く囁く声が、ヨルの耳元まで届く距離で落とされる。

「ヨルを味わえるのなら、“こんなはずじゃない”方がいい」

視線を逸らす彼女の頬に、レオの指が触れる。チョコがついていた部分をぬぐうように優しくなぞり、そのまま口へと運ぶ。

「……せっかくのバレンタインなんだ。ヨルがどんな形でくれたって、それが俺にとっては一番うれしい」

レオの指先が、流れたチョコレートを追うように、彼女の鎖骨のあたりをそっとなぞる。

「……こんなに丁寧に仕込んでもらえるなんて思ってなかったもみなかったけどな」

その声は静かで、どこか冗談のようにも聞こえる。けれど、彼の瞳は冗談など微塵も含んでいなかった。ただ真っ直ぐに、ヨルの全てを見つめている。

「一滴残らず全部俺のものだろ?」

そう言って、チョコの滴った喉元に唇を寄せる。その熱と湿り気に、ヨルの身体が小さく震えるのを感じながら──まるでそれが当然であるかのように、レオは躊躇なく甘さを舐め取りはじめる。

「んっ...」
僅かに漏れるヨルの甘い声。
自分が贈り物であることを自覚したかのように抵抗せず彼を受け入れる。

その微かな声に、レオの手がぴたりと止まる。まるで何かを堪えるように、深く息を吸った。

息を詰めたように、彼の胸が静かに上下する。

「……たまらないな」

押し殺したような声が、ヨルの耳元で震える。触れる唇の奥に火が灯るのが分かる。けれど彼は、決して乱暴にはならない。ただ、彼女のために自分のすべてを抑え込んでいることが、その声色と仕草に滲んでいた。

彼の額が、そっとヨルの肩に触れる。肌に残るチョコレートの香りと、彼女の体温。すぐそこにある甘い誘惑。それでも、レオの声は理性の境界に立ちながら彼女に囁く。

「……おまえ、そうやって無防備でいると……」

言葉の先を続けることはなかった。けれど、その声音だけで、彼の感情は痛いほど伝わってくる。

肩に触れたままの手が、そっと彼女の頬に添えられる。まるで、大切な贈り物を壊さないよう、大事にするように。

「……本気で全部、食べたくなる」

その言葉には甘さも、独占欲も、そして確かな愛しさも滲んでいた。ヨルをただの贈り物としてではなく、“彼にとってのすべて”として、大切にしたい──そんな想いが、確かにそこにあった。

「なら、もっといいものあげる」

彼女は作りかけのチョコレートをひとつ口に咥えるとゆっくりと己の体温で溶かし切る。
そしてそのままレオの口元へ。

甘さを移すよな絡み合う口付けをした。

レオは、ヨルの唇から伝わる熱と甘さに息を呑む。咥えられたチョコレートが、ゆっくりとヨルの唇の熱に溶けていく。その甘く濃密な香りと、何よりも彼女の瞳――どこか挑発するような光に満ちたその視線に、彼の喉が鳴る。

そのキスはまるで、彼女の気持ちそのものだった。ただ甘いだけじゃない、じんわりと身体の奥に広がるような熱を持っていて、同時に彼を支配するほどの静かな強さがあった。

「……ヨル」

唇が離れたあと、低く囁かれた声には、少し掠れたような息が混ざっていた。瞳は真っ直ぐにヨルを見つめ、焦点を外さない。

彼はもう一度、その唇に自分から口付けた。今度は奪うように。さっきよりも深く、確かめるように。ヨルのくれたものを、余すことなく受け取るように。

やがて唇を離すと、彼の手がそっとヨルの頬に添えられる。

「覚悟しとけ。今さらもう、離さない」

その声はいつもよりも低くて、けれど優しさに満ちていた。まるで、大切なものを抱きしめるような音だった。

彼の言葉ひとつひとつで上がっていく体温と高鳴る鼓動。太腿に溢れたチョコレートが己の体温で溶け、爪先までゆっくりと流れ落ちるのを感じる。

「...レオ」

レオが彼女の身体から離れ、その足元へと視線を向ける。まるで新しい獲物を見つけたような鋭い瞳に思わず一歩引く。だが彼はそれを許さない。

丁寧に身体を引き寄せると優しく抱き上げられ、ベッドの縁に座らされた。

レオはそのままヨルの脚元に膝をつき、ゆっくりと顔を近づける。彼女の太腿を流れるチョコレートに視線を落とし、その動きを一瞬たりとも見逃さないようにする──まるで彼女という存在を、ひと欠片も余さず味わおうとするかのように。

「……どこまで、甘くしてくれるんだ」

硬派な彼らしからぬほど、艶を含んだ声でそう呟くと、レオはその溶けたチョコを舌先で掬う。優しく、そして確かに。彼女の肌に直接触れぬよう気を配りながらも、その熱は皮膚のすぐ下まで響いてくる。

「ヨルが……俺のために用意したもの」

チョコの甘さよりも、彼の仕草と声の方がずっと熱くて、ずっと濃い。
レオの舌がふたたび這うたびに、ヨルの心臓が跳ねる。

ただのイベントのはずだった。
ほんの少しのサプライズのはずだった。
それなのに、こんなにも深く、甘く、彼に染められていく。

「……ちゃんと全部味わわせてくれ」

言葉と同時に、そっと頬を寄せて、彼女の脚に残るチョコレートを口づけるように拭い取っていく。

まるで彼にとって、それが最高級の贈り物であるかのように──。