夜も更けた静かな時間。
テレビの音もほとんど気にならないくらいのボリュームで流れている中、リビングはまるで時間が止まったような穏やかさに包まれていた。
ソファに深く腰を下ろしたレオは、ゆったりと脚を伸ばし、その間に背を預けて座るヨルの後ろ姿を見下ろしていた。彼女の髪からは、まだ微かにシャンプーの匂いが香っていて、さっきまでの入浴後の名残がそこかしこに感じられる。
テレビで流れる番組にはたいして興味もなかったが、この何も起こらない夜に、目の前にいる彼女の存在だけが、妙に現実味を帯びていた。
手元のグラスが空になったのに気づいて、そっと腰を浮かせる。伸ばした体勢のまま、テーブルに置いてある水を取ろうと前屈みになると、自然と顔がヨルの耳元に近づいた。
「……ちょっと動くなよ。取るだけだから」
息がかかるほどの距離で、何気なくそう声をかけた瞬間——
ヨルの肩が、ぴくりと小さく震えた。
すぐにグラスを手に取りながらも、その反応に思わず口元が緩む。
ふっと、低く抑えた声で笑みを漏らす。
「……そういえば、ヨル。前に言ってたな」
ほんのりと挑発するように、今度はわざとゆっくり、耳元へ息をかけるようにして囁く。
「俺の声、好きだって」
彼女の反応を確かめるように、わざとゆっくりとした口調で言葉を落とす。
俺の膝の間で背を預けるその小さな体に、意識が向いていく——。
「...言って、ない。そんなこと」
そんな強がるような言葉とは裏腹に視線を逸らし真っ赤になった耳が髪の間から見える。低く鼓膜を揺らすその声に、普段余裕ある悪戯っ子なヨルとは違った一面が見えていた。
「……言ってない、か」
わざとらしく口の中で反芻しながら、彼はグラスをテーブルに戻し、そのまま背もたれに体を預けた。目の前の彼女の肩越しに見える、隠しきれていない耳の赤さ。そんなの見せられたら、もう引けない。
「じゃあ、なんでそんなに耳、真っ赤なんだ」
片手を伸ばし、指先でそっと彼女の髪をかき分ける。ひと房を摘んで持ち上げると、その下に隠れていた熱を帯びた耳があらわになった。
「なあ、ヨル。本当に好きじゃないのか?」
その言葉を囁きながら、耳元にぐっと近づく。息が触れるほどの距離で、さらに追い討ちをかけるように甘い声で続けた。
「認めたらどうだ?ヨルのそういうところ、俺は好きだ」
言いながら、彼女が今にも振り返りそうな気配を感じて、どこまで耐えられるか、心の中で少しだけ意地悪なカウントを始める。
「...やめて」
照れた顔を隠すように両手で口を覆うヨル。レオの一言一言が、ヨルの耳へと刺さっていた。それは彼女にとって直接触れられるよりもずっと深く、重たく甘い刺激。
レオはその仕草に目を細め、口の端を緩ませた。口もとを覆うヨルの指の隙間から、かすかに覗く赤く染まった頬。その反応が、なんとも愛おしくてたまらない。
「……可愛いな」
わざと呟くような声で、耳元にまたそっと言葉を落とす。その音の震えすらも、彼女の中で反響することを知っていて。
「……顔、見せろ。ヨル」
膝の間にいる彼女の肩に、今度は優しく手を添えた。ぐっと引き寄せるのではなく、逃げ場を封じるようでもなく、ただそこに触れるだけの動き。それだけで、空気がさらに近づいた気がした。
「認めるまで……もっと、聞かせてやる」
言いながら、その声に少しだけ重たさを乗せる。低く、落ち着いていて、それでいて耳の奥に残るような、ヨルのためだけに作った特別な響きで。
「…俺の言葉だけで、こんなに弱くなるのか?」
ほんの少し意地悪く笑いながら、彼女の反応を待った。ふいに触れた指先よりも、声のほうが彼女を揺さぶっているのを感じて。ヨルの呼吸の間合い、肩のわずかな動き、身体から滲む熱……そのすべてを、逃さず受け止めていた。
「離れて...」
それは懇願にも近い声。僅かに震え、レオの言葉に呑まれそうになっているヨル。普段より奥まで響く、私のためだけに作られた特別な声。その事実だけでも耐えられそうになかった。
「聞こえてるから」
そう言って、彼から距離を取ろうと床に手をつく。その動きに、レオはわずかに目を細めた。床についた華奢な手、退こうとするその背中。けれどその行動が「逃げたい」ではなく、「堪えきれない」の延長であることを、レオはもう見抜いていた。
「……本当か?」
低く、問いかけるように呟きながら、彼はその彼女の手を優しく掴んだ。無理に引き戻すわけじゃない。ただ、逃げたその先にもう一度触れて、彼女の感情に寄り添うように。
「……もっと近くでもいい」
その声は、囁きというよりも、息を乗せた音だった。距離を取ろうとする彼女に合わせるように、レオも身を屈めて、そっと追う。耳ではなく、今度はうなじに。熱を持った吐息を落とすと、彼女の肌がほんのわずかに反応するのが見えた。
「……ヨル」
名前を呼ぶ声は、それだけで意味を持つ。甘やかしと、揺さぶりと、愛しさの全てを込めて。彼女の強がりが崩れていく音が、まるで耳元で聞こえてくるようだった。
「離れろとは言うが……全然説得力がないな」
囁きながら、彼女の手をそっと引き戻す。
逃げ道を塞ぐためじゃない。触れられていることを実感してほしかった。
「ヨル」
自分の声が、言葉が、ちゃんと届いていることを。ヨルのなかで響いていることを——。
「んっ......」
僅かな呼吸の揺らぎ。乱れた息の間から甘い音が漏れる。眉を寄せ、赤い頬はそのままに困ったような表情を浮かべる。
その声が、レオの理性の奥底に火をつけた。
ただ名前を呼んだだけなのに、ただ囁いただけなのに、こんなにも甘く、苦しげな音を返されるなんて。彼女の中で自分の声がどれだけの影響を持っているのか、改めて実感させられる。
「……可愛いな、ヨル」
囁くというには近すぎる距離。もう彼女のぬくもりも呼吸も、肌越しに感じられるほどだった。困ったような顔。なのに、逃げきれないまま、そこに留まる彼女。強がるたびに、愛しさが増していく。
「……たまらない」
息を吐くように、正直すぎる言葉がこぼれる。彼女の赤く染まった頬に視線を落としながら、指先でそっとその頬に触れた。ひどく熱を帯びている。
まるで、触れただけで自分の指まで溶けてしまいそうなほどに。
「そんな顔……誰にも見せるなよ」
その声は完全に、ヨルのためだけのものだった。深く、優しく、でも逃がさないように甘い重みをまとって。彼女の耳元に唇を寄せながら、じっと、その反応を待つ。
「好きだ、ヨル……」
頭の中に響く彼の声全てが、彼女を言いようのない沼へと堕としていく。
「...レオ...」
もう何も考えられない。彼の声以外何も。そんな思いのまま、ただ縋るように彼の名を呼ぶ。
その小さな呟きを聞いた瞬間、レオの指先がわずかに震えた。
掠れるような声。それだけで、どれほど彼女が自分に心を傾けているのかが分かる。
ヨルの中に、自分の声が確かに染み込んでいっている——それを実感するには、あまりにも十分すぎるほどだった。
「……ヨル」
彼女の言葉をすくい取るように、優しく応える。耳元に、唇がかすかに触れる距離で再び名を呼ぶ。
愛しさだけでなく、深い独占欲と、もっと触れたいという抑えきれない想いを込めて。
床に座る彼女の背後から、レオはそっとその体に腕を回した。ぎゅっとは抱かない。ただ、包み込むように、逃げ場を与えないように。
「……おまえが俺の声だけで、こんなに乱れてくれて嬉しい」
低い声が耳元に這うたびに、ヨルの体から力が抜けていくのが分かった。
自分の言葉が、声が、彼女を支配している。心の奥の奥まで、染み込んでいくような感覚。
それは甘美で、そして何より——
「……もっと堕ちてくれよ。ヨル。俺の声に……俺だけに」
とろけるような音で囁くその声が、彼女の意識の奥へ、静かに静かに沈んでいった。
「もう、限界...」
彼の声の響きに加え、回された腕の熱。近づく呼吸。その全てに対してヨルは限界を迎えていた。
「......好き。レオの声、レオの全部が...」
僅かに潤んだ瞳で彼を見上げる。その時初めて交わった視線はあまりに熱くて。
「だから...。これ以上は、駄目」
その言葉を受けて、レオの表情が変わる。
今にも手を伸ばしたくなる衝動を、ぎりぎりのところで押しとどめるように、喉の奥で息を呑んだ。
「……ヨル」
その名を、そっと噛み締めるように呼ぶ。
潤んだ瞳、震える吐息、限界だと訴えるその小さな声。全部が愛おしくて、抱きしめたくて、けれど彼女の言葉を、絶対に無視したくはなかった。
「……ごめん。煽りすぎたな」
落ち着いた声で。まるで暴走していた心ごと静かに鎮めるように。
回していた腕を、ゆっくりとほどく。けれどその指先だけは、まだ彼女の背に残したまま——余韻をなぞるように、優しく撫でた。
「……でも、ちゃんと聞いたからな」
少しだけ口元を緩めて、小さく笑う。どこか満足げで、それでいて、彼女の気持ちに優しく寄り添うように。
「俺も好きだよ。……おまえの全部が」
視線をそらさずに、静かにそう言う。
その声にはもう、揶揄いや焦らしなんて欠片もなかった。ただただ、目の前の彼女を、誰より大切に思う男の声だった。
