夕暮れの風が本格的に冷たくなってきた頃。
夜勤明けに久しぶりに一緒に帰ろうとヨルが迎えに来てくれた。
制服から私服に着替え、警察署を出ると、道路の向こうに佇むヨルの姿が見える。
肩から流れる黒髪が夕陽を受けて揺れ、すっと目が合った瞬間、何かが緩んだ気がした。
「悪い、待たせたな」
信号が青に変わるのを待って、早足で駆け寄る。ヨルはふわりと微笑み、何も言わず彼の腕にそっと手を添えた。
少し冷たい指先。その温度に反応するように、レオの手も自然と彼女の手を包み込む。
街のざわめき、風に揺れる看板、近くのバス停に集まる学生たち。
何も特別じゃない、ただの帰り道。それでも、彼女が隣にいるだけで、すべてが穏やかに見える。
「……こうして帰るのは、久しぶりだな」
言葉少なにそう呟きながら、信号が変わるタイミングで彼女の手をぎゅっと握り直した。
そのときだった。
前方の交差点で、タイヤの焼けるような音。
ブレーキの悲鳴、鈍い衝突音、そしてガラスの割れる破裂音。
身体が一瞬で固まった。
次の瞬間、視界が白く、耳鳴りが鼓膜を圧迫する。
──思い出したくない記憶が、波のように押し寄せる。
「……っ」
足が止まり、胸の奥に冷たい何かが突き刺さる。
呼吸が浅く、うまく声が出ない。頭の中では、幼いあの日の光景が繰り返されていた。
「レオ、?」
目の前で起こった大きな事故。そしていつもと明らかに様子が違うレオ。動揺しながらも、辺りを確認し安全な場所へと彼を引き寄せる。
「大丈夫?」
ヨルの声が届いた瞬間、何かが引き戻されたような感覚があった。
でもすぐには言葉にならない。ただ、震える手のひらと、不規則に打つ鼓動がそれを物語っていた。
「……離れ、ないでくれ……」
無意識に彼女の腕を強く掴んでいた。
しっかり立っているつもりなのに、地面がどこか遠くに感じる。心臓が潰れるように痛む。鼓膜の奥で鳴っていた耳鳴りも、まだ消えない。
ほんの数メートル先で、誰かが名前を呼び、車から降りてくる人々の足音が近づいてくる。
けれど、レオの時間は、ずっと昔に巻き戻されたままだった。
──あの日、助手席にいた母の叫び。
ハンドルを握っていた父親の腕。血に染まった妹の指先。
そのすべてがフラッシュバックのように、容赦なく頭を締めつけてくる。
「……また……」
歯を食いしばって、目を閉じる。けれど、震えは止まらない。強く握った彼女の手だけが、現実に俺を繋ぎとめていた。
まるで呼吸の仕方を忘れてしまったかのように荒く繰り返され、胸が上下に激しく動く。息を吸うたびに、彼の顔からは汗が滴り落ち、心臓は激しく鼓動を響かせていた。
「ゆっくり吸って」
繋いだ手は離さないまま。座り込むレオを抱き寄せると、ちゃんと届くように耳元で伝える。
ヨルの声が、酷く遠くて、酷く優しくて──
それだけで、張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。
「……っ、あぁ…………」
吐くように絞り出した声。
頭の中はまだ濁ったままなのに、ヨルの体温だけがやけに鮮明で、怖いくらいに現実だった。
彼女の胸に額を預けたまま、言われた通りに呼吸を繰り返す。深く吸って、吐く──ただそれだけが、ひどく難しい。
「……ヨル……」
細く、消えそうな声で名前を呼んだ。
腕の中にある温もりにすがるように、肩に額を預ける。まるで溺れている人間が、唯一掴んだ浮き輪を離せずにいるような必死さで。
彼女の呼吸に合わせて、少しずつ息を吸ってみる。吐いて、また吸って……。
まだ胸は痛い。頭の奥がじんじんする。でも、さっきよりずっとマシだ。
「大丈夫、どこにもいかない」
彼から大きな涙が溢れ落ち、ヨルの肩を濡らす。呼吸が落ち着くにつれ、ゆっくりと彼の背中をさすった。
「ここにいる」
ヨルの知らない彼の恐怖。どうすることもできず、ただ落ち着けるように側にいた。
「……ヨル」
ヨルの胸元に額を押しつけながら、小さくこぼすように呟く。
溢れ出た感情に蓋をすることがもうできなくて、止めどなく流れる涙も止まらない。
記憶は曖昧でも、あの金属のきしむ音、割れるガラスの破裂音、焼け焦げた匂い──その全てが今も体の奥に刺さっている。
「気づいたら……誰もいなかった。あったはずの声も、手も……全部、……」
震える声のまま、そっとヨルの肩に顔を寄せる。触れている場所から、確かな温度が伝わってきた。それがどれほど救いになるものか、ようやく分かった気がした。
「……事故、だったんだ」
しばらくして、ぽつりと呟いた声は、遠い記憶を辿るように震えていた。喉の奥が焼けるように熱く、声がうまく出せない。けれど今だけは、隠せなかった。
「家族が……目の前で……、」
背中に感じるヨルの手の温もりが、過去の闇に引きずられそうな自分を引き留めてくれる。
掠れるような声で言葉が落ちると、肩がまた小さく震えた。記憶が曖昧であるほど、残されたものは、鮮烈に身体に刻まれている。
「子供の頃……家族で旅行に行く途中だった。雨が降ってて、」
目の前に広がったのは、あのときの光景。
粉々に砕けたガラス、横転した車。ひっくり返った世界で動かなくなった家族の姿──。
「気づいたときには、俺だけ……」
言葉にするたびに、喉が焼けつくようだった。
ヨルまでいなくなったら──
そんな言葉だけは、どうしても口にできなかった。
施設育ちで親も兄弟もいない、そんな彼の断片的な情報が繋がる。
「……大丈夫」
こんなにも彼に深い傷を残した記憶。いつも逞しく強い彼が、今だけは崩れてしまいそうに見えた。
「大丈夫だよ」
必死にしがみつく彼の頭から背中まで、ゆっくりと落ち着けるように撫でる。そして、彼の苦しみを少しでも取り除くように、優しくそっと繰り返した。
レオの指先が、ヨルの服の裾をぎゅっと掴む。まるで夢から覚めないように、現実を確かめるように。
「……ヨル」
かすれる声で彼女の名を呼ぶ。
その名を呼ぶことで、現実に戻ってこられる気がして。優しい手のひらの温もりが、過去に囚われた心を少しずつほどいていく。震えていた指先も、ようやく落ち着きはじめていた。
「全部……終わったはずなのに、こんな……」
彼の声はとても弱く、心の底から大切な何かが溢れたような表情だった。
何年も誰にも見せたことのなかった脆さ。それを今、ヨルにだけは見せてしまっていた。けれど──不思議と怖くはなかった。
「……おまえがいてくれて……良かった」
抱き寄せる力が、ほんの少し強くなる。
それは、傍にいてくれるヨルを、ただ確かめるような仕草だった。
「レオ」
優しく呼ぶヨルの声と共に、近くで救急車やパトカーのサイレンが鳴り始める。仕事柄、耳馴染みのある音のはずだが、今の彼には聞かせたくない。
「私を見て」
彼の両頬に手を添えると額を合わせた。彼に気づかれないように耳を塞いで、自分だけが見えるようにする。
額が触れ合った瞬間、レオの瞳がようやくヨルを真っ直ぐに捉えた。
瞳の奥にまだ微かに揺れる怯えと、どこか子どものような不安が残っている。
けれど、ヨルの手が優しく彼の頬を包み、サイレンの音から守るようにそっと塞いでくれるその行動に、胸の奥でずっと凍りついていた何かが、じんわりと溶けていくのがわかった。
「……なんで、こんなに優しいんだよ」
ふっと息を吐きながら、震える声で、けれど笑みを滲ませて言う。近すぎる距離。触れ合った額のぬくもりに、現実が戻ってくる。耳に届くのは、サイレンじゃない。彼女の呼吸、声、そしてこの瞬間だけの静けさ。
「……ありがとう、ヨル」
それは照れ隠しでも、軽口でもない。
今、彼の胸に溢れていた本音。
「……おまえだけは、失いたくない」
ただ、その一言にすべての想いを込めて。
彼は額を合わせたまま、彼女の手にそっと自分の手を重ねた。
頼りたいと思ってしまう。今だけはどうしても。
「私はどこにも行かない、きみが望む限り」
鳴り響くサイレンと、耳を塞ぐ自分の手。彼に伝わるかは分からないけれど、安心させるような瞳でヨルは彼を見つめた。
レオはその視線を、逃さずに受け止める。
ヨルの瞳の中には、自分の姿が映っていた──みっともなくて、弱くて、彼女に縋る自分が。
静かに目を伏せると、ヨルの額から自分の額を離し、肩に顔をうずめる。
彼女の香りと温もりが、喉の奥に詰まった感情を少しずつ溶かしていく。
「……ヨル」
小さな声で、まるで自分に言い聞かせるように呟いた。そして腕を回し、もう一度彼女をそっと抱きしめる。まるで、自分がこの現実にしがみつくように。
もう二度と──大切なものを、手放したくない。
