薄暗い部屋の隅で、レオは椅子に腰掛けていた。長い一日の疲れを引きずった体は、無意識にだらりとした姿勢を作り、目はぼんやりと窓の外の景色を捉えている。
外はすでに日が暮れて、空に僅かに残る柔らかな橙色がカーテン越しに差し込む。そんな中、テレビから流れる小さな雑音が部屋に静かな生活感を漂わせていた。
ふとした瞬間、長時間使用したコンタクトにより目元が霞み視界がぼやける。「そろそろ、外さないと……」と呟き、レオは腕を伸ばして伸びをする。そして無意識に脱衣所へと向かう足音を立て始めた。
廊下の先には、浴室の扉がかすかに開いていて、湿気を含んだ空気が漂っている。だが中から水音はしないため、ヨルはもう出たのかとレオは扉を躊躇なく開いた。
「レ、オ...?」
しかし、彼の目の前にはバスタオル一枚のヨルの姿。寄せられた胸元に露わになっている太もも、まだ水の滴る髪の毛。
「――っ!!」
視界に飛び込んできたその光景に、レオの思考が一瞬止まる。
「わっ、悪いっ……」
慌てて扉をバタンと閉め、背中で抑えるようにして立ち尽くす。火がついたように顔が熱くなり、耳の先まで真っ赤になるのが自分でも分かる。
「違う、見るつもりは……っ。というか、もう上がってると思っていて……」
しどろもどろに弁明しながらも、脳裏に焼き付いた濡れた髪や柔らかな肌の残像が消えない。
息をつきながら、心臓の音がやけに大きく響いていた。
「なんで脱衣所の鍵かけてないんだ……心臓止まるかと思った」
扉の反対では、バスタオルが肌けないように胸元で強く握りしめるヨル。彼女もまた鼓動を落ち着けようとしていた。
「...今日はなかなか、大胆だね」
自分を落ち着けるように扉の先にいる彼を想像して、少し揶揄いながら呟いた。
レオは扉越しのその声に、息を呑む。
静かなのに、どこか艶を含んだ声音。冷や汗が背筋を伝う。
「やめろ……そういう言い方は」
手はまだ扉に添えられたまま、心臓はさっきからずっと暴れている。
ヨルが怒っていないのは、声の調子でわかる――だからこそ、逆に落ち着かない。
「今のはわざとじゃない。事故だって……」
言葉が詰まり言い訳も途中で崩れていく。
恥ずかしさと焦りで、いつもより声が少しだけ弱い。
「じゃあ、わざとの時もあるの?」
彼の弁明から"今のは"といった言葉を意図的に抜き取ったヨル。
段々と落ち着いた鼓動で、彼女の興味は彼の動揺へと移る。少し突けば赤くなる彼の顔が見たくて、扉を少し開けると小さく顔を覗かせた。
わずかに開いた扉の隙間から、チラリと現れたヨルの顔。
その濡れた髪が頬に張り付き、上気した肌が淡く赤い。レオの視線が一瞬だけ、そこに吸い寄せられて固まる。
「っ……おまえ……」
勢いよく顔を背けると同時に、耳まで真っ赤になるのが自分でもわかる。
さっきからずっと冷や汗が止まらないのに、今は暑くて仕方がない。
「ない、...あるわけがないだろ」
怒鳴るほどじゃないが、確実に動揺が滲んだ声。勢いよくそう言い放ったものの、耳の先だけでは治らず、首元までがゆっくりと赤く染まっていく。
言葉の語尾が跳ねたのは、図星を突かれたわけじゃない――断じてない。だが、その問いの含みがどうしようもなく恥ずかしい。
「…真面目に謝ってるのに……人の気も知らず」
ヨルの顔を見ないようにしたまま、レオは自分の襟元を軽く引っ張って、熱を逃がそうとする。
「そっか」
その反応が見られたことに満足したのか、ヨルは淡白に返し静かに扉を閉めた。
だが、レオがほっとしたも束の間。
「でも......」
扉越しに言葉を続けるヨル。服を着ているのか、彼女の言葉を聞き取ろうとすると布の擦れた音も耳に入り、レオの想像を掻き立てる。
「乙女の身体覗き見たんだから、」
くぐもった声で一旦区切ると、扉に近づきさっき見たレオの耳がある位置へ直接声を出す。
「...責任とってね」
「っ……!」
不意に間近に響いた囁きに、レオの肩がびくりと震える。
鼓膜をくすぐるようなその声は、妙に艶を帯びていて。扉一枚を隔てた先を想像してしまった。さっきのヨルの姿、濡れた髪、タオルの奥の柔らかさ、まだ残る湯気のぬくもり――
レオは慌てて頭を振った。
「……いい加減にしろ。おまえ……」
咄嗟に強めの声が出たが、すぐに後悔する。
怒ったふりをしても、自分がいちばん狼狽えてるのは明らかだった。
顔は熱い。声もどこか掠れてる。
「責任って、……」
深く息を吐いて、ドアにもたれかかる。
思わず出たその問いは、情けないほど真剣で。
ヨルの思惑通り、完全にペースを握られていると、内心で苦笑した。
暫くすると着替え終えたのか、何食わぬ顔で出てきたヨル。彼女の手に握られているのはひとつのドライヤー。
「ほら、きみの責任」
レオへと突き出して手渡すと、リビングへと先に歩き始めた。嬉しそうに悪戯な表情を浮かべると、肩越しに振り返って笑いかける。
「なに想像してたの。早く髪乾かして」
レオは手渡されたドライヤーをぼんやりと見下ろし、少し遅れてから小さくため息をついた。
「……まったく」
それでも、ヨルの後ろ姿に続いて歩き出す。
あの無邪気な悪戯っぽい笑顔には、どうしてこんなにも抗えないのか。
リビングのソファに腰を下ろしたヨルの背後に立つと、レオは黙ってコンセントにコードを差し込んだ。
カチリとスイッチを入れ、低い唸りとともにぬるい風が吹き出す。ゆっくりとヨルの髪に指を通しながら、丁寧にドライヤーを当てていく。
先ほどまでの動揺を誤魔化すように静かで、
けれどその手つきは、どこか優しさと照れくささの入り混じったものだった。
ドライヤーで周りの音は何も聞こえない。でも彼の手が優しく自分の髪に触れるたび、それがなんだか心地良くて。ヨルは彼に身を任せゆっくりと瞼を閉じていた。
レオの指先が、そっとヨルの耳の後ろにかかった髪をかき上げる。
柔らかく絡む濡れた髪を少しずつ整えながら、風の向きを変え、根元から乾かしていく。
彼女の呼吸が落ち着いていくのが背中越しに伝わり、レオはふと息をのんだ。
この数分の静けさと距離感が、どんなに自分の心をかき乱してくるのか、彼女は知っていてやっているのか。
「……気持ちいいか?」
風に掻き消されないように耳元で。仕返しのように、意識せずにはいられないほんの少しの吐息を含んだ声で問う。
気の抜けた耳元に突然彼の声が届く。それはヨルが大好きな、彼の包み込むような低く甘い声。一瞬体が強張り、閉じていた目を見開いた。
「...レオ」
まだ乾かし切っていない髪を払い、ソファの座面に膝立ちでレオに向かい合う。彼が持つドライヤーに手を伸ばし電源を落とすと、驚く彼の懐に躊躇なく飛び込んだ。
「——ヨル?」
レオは思わず声を上げたが、抱きついてきたヨルの体温と柔らかな髪の香りに、言葉の続きが喉奥で溶けた。
彼女の華奢な腕がそっと自分の背中に回る。距離を詰めてきたのはヨルの方なのに、胸の奥を掴まれるようなこの感覚は、いつだってレオのほうだった。
「……どうした、急に」
ヨルの額が胸に触れて、ドクンドクンと高鳴る鼓動が伝わる。レオは戸惑いながらもドライヤーを置くと、その背に片腕を回し、もう片方の手でまだ湿った髪を優しく撫でた。
まるで壊れ物に触れるように、静かに。
「髪の毛はもういい。許してあげる...」
彼の鼓動を聞くように耳を澄ませながら、響く彼の声を全身で感じる。そして胸に顔を埋めると少しくぐもった声で一言。
「...でも、レオのせいで別のことしたくなった」
それはヨルなりの可愛いお誘い。彼女の耳はお風呂上がりでのぼせたのだろうか、先の方が赤く染まっていた。
「きみが思ってるより。私、レオの声が好きなんだよ」
レオの喉が、ごくりと鳴る。
抱き寄せたはずの彼女の声が、自分の奥に入り込んでくるような錯覚。
胸元から伝わる熱と、赤く染まった耳が──たまらなく愛しくて、けれど同時に、自制心をゆっくりと削いでいく。
「……ヨル」
低く、抑え込んだ声で、レオは囁くように呟いた。彼女の耳に触れるように彼女の名前を落とすと、ヨルの細い肩が一瞬ぴくりと震える。
「おまえが誘ってきたんだからな」
そう言って、レオはゆっくりと彼女の頬に触れた。優しく、しかし決して逃がさないような手つきで、指先にこめたのは愛と独占。
その目は、ヨルだけを真っ直ぐに見つめていた。
