夜勤明けの昼下がり。静かな部屋に差し込む日差しが、レースのカーテン越しに床へやさしく模様を落としていた。ソファではレオが仰向けに横になり、制服のまま寝息を立てている。いつものように少し険しい眉と、寝ていても崩れない整った横顔。

……だったのが、ふと目元がゆるんで、ゆっくりと瞼が持ち上がった。

「……ヨル……」

レオは彼女の姿を認めると、ちょっとだけ口元を緩めて、寝起きの声で呟いた。

「……悪い、気づいたら寝てた」

それはまるで、安全な場所を当たり前のように思っている人のような、素直な言葉だった。
彼の目はまだ少し眠そうで、頬に当たる陽の光を気持ちよさそうに感じているみたいだった。

「おはよう、レオ」

レオの邪魔にならないよう、ソファ下の床に足を伸ばして座っていたヨル。彼が起きた気配を感じて振り返ると、優しく目にかかった前髪を撫でた。

「...お疲れみたいだね」

人前では硬い表情を貫く彼が、自分の前ではこんなにも緩んだ表情で笑ってくれる。そんな事実を抱き込むように、ヨルはそっと頬にキスを落とした。

レオは頬に落ちた柔らかな感触に一瞬だけ目を見開くも、すぐに小さく笑った。

「大丈夫」

体はまだ重いけど、その何気ない優しさに、確かに芯の疲れが少しずつ溶けていくのを感じていた。

「……今疲れが吹き飛んだところだ」

照れ隠しのように言葉を続けながら、レオはゆっくりと身体を起こす。寝起きの癖で少し髪が跳ねているのに気づきもせず、レオの声はどこか心地よさそうで、ヨルへと寄せた信頼がそのまま滲み出ていた。

「そう、...なら良かった」

ぼやけた頭で半分閉じかけた瞳のまま、すぐそばのヨルを静かに見つめるレオ。あまりに安心し切った警戒心のない姿。ヨルは僅かな好奇心で彼の脇腹へと指先を滑らせた。

「ねえ、レオ」

甘さとは違う刺激がレオへと伝わる。

「少し試してみてもいい?」

唐突なそんな言葉と共に軽やかに這うように彼女の指が動いた。

「っ――なに、ヨル……?」

レオは瞬間的に眉をひそめ、小さく身体を揺らした。脇腹を撫でるようなその指先が、甘い緩みとは違う、思わぬ敏感さを刺激してくる。
普段なら鋭く反射的に払いのけるだろうその動作も、彼女が相手だと緩やかに堪える形になっていた。

「おまえ……どこ触って……」

声に怒気はなく、むしろ困惑と緊張が入り混じるような、いつもの硬さとは違う揺れがあった。けれど、明らかにレオの目元が笑っている。口の端も、わずかに上がっていた。

「……っ、ちょ、おい……ヨル」

脇腹を押さえるようにしてヨルの手を避けながら、レオは不器用に言った。だけどそれは、自分でも確信してる“効く”という自覚の裏返しだった。

「効くんだね、レオ」

珍しい彼の反応に目を細めたヨル。そのまま腰回りまでくすぐると面白い具合に反応する彼。

「緊張とリラックスが混じると、感覚が鋭くなって効きやすくなるんだって。どう?」

彼が眠っている間に目に入った雑誌のコラム。寝ているからと我慢していたのだが、目が覚めた彼の無防備な姿はヨルの悪戯心に火を灯してしまった。

「……っは、く……ヨル、やめっ」

思わず肩を震わせて、レオはヨルの手を掴もうとする――けれど、本気では止められない。
くすぐったさと、彼女の手の温もり。
どちらも心地良くて、腹の底がこそばゆくなるような感覚に笑いがこみ上げてくる。

「き、効かない。……効かない...けど、やめろ」

小さく笑いを漏らしながら、レオはとうとうソファの背に倒れ込むように身を預けた。
無防備をさらけ出す、なんて言葉じゃ足りないくらいの素の姿。それを見られても平気だと思えるのは、目の前にいる彼女だけだ。

「……おまえ、絶対わざとだろ」

レオは不服そうに低く唸りながらも、強くは拒まない。ただしっかりと両腕で自分の腹部を守るようにしつつ、ヨルから逃げようとわずかに体を後ろに引いた。
けれどソファの背もたれがすぐ後ろにあり、逃げ場はない。

「……くすぐったいの、苦手なんだ...」

そう言ったその頬には、明らかに赤みが差していた。
警官として、男として、どこか”触れられること”に慣れていないレオ。ヨルの細い指先に触れられるだけで、緊張が走る。それがくすぐるという”悪戯”を伴えば、逃げたくなるのも当然だった。

「このままじゃ……なぁ、もうやめてくれ……」

情けないほど真面目な声で懇願するように言ったその目は、どこか甘えた犬みたいで、
ヨルの悪戯心をさらに刺激してしまうような、そんな顔だった。

「そんな顔でやめてって言われたら、もっと悪戯したくなる」

ヨルは彼の足の間に片膝を入れて、ソファにのし上がると彼の首元へと手を這わせた。ゆっくりと、耳元から肩、背中まで襟周りを執拗にくすぐった。

「っ……おい、ヨル……!」

レオは堪えきれず、低く息を漏らした。
肩が跳ね、背筋がこわばる。
くすぐったさと、彼女の指先の熱と、そしてそれ以上に“意識させられてしまう”という羞恥が混じり、逃げ場のない苦悶に変わっていく。

「...ここも効くんだ」

新たな発見を得たように、嬉しそうに口元を緩ませるヨル。

「……反則だろ、こんなの……」

顔をそむけたレオの耳まで真っ赤になっていた。けれど拒絶の言葉はない。むしろその声には、かすかな甘さすら滲んでいた。
ヨルに触れられることが、たまらなくくすぐったくて、同時に、たまらなく嬉しい――その葛藤が彼の全身に表れている。

「なんでそんなに楽しそうなんだよ……っ」

思わずソファの背に手をついて上体を起こした。だが、ヨルが膝を入れたことで動きづらく、彼女の指から逃れる術はない。
くすぐられるたびに肩が震え、息が漏れる。

振り払いたいのに、触れられるのが嫌じゃない。むしろ、くすぐったさの奥に微かにくすぐるような甘さが混ざっていて、レオは自分の体温が上がっていくのを感じていた。

「……いい加減にしろ。...これ以上やったら、おまえが後悔することになる」

言葉は威圧的なのに、その声は熱を帯びていて、まるで自分に言い聞かせるような脆さがあった。ヨルが一線を越えるのを、待っているのは自分かもしれない——そんな矛盾が彼の胸に灯っていた。

「レオの方が力強いんだから...嫌なら振り解いて」

彼が強い拒絶をすることはない、そんなある意味での信頼が彼女の言葉には滲んでいる。彼女の手が首周りから下がって、脇の下辺りへと伸びた。

「きみの弱いところ、もっと見せて」

その言葉と同時に、ヨルの指先によって今一番レオにとって触られたくないであろう"弱点"が炙り出される。

「や、め……っ、ヨルッ!」

レオの肩がびくりと跳ねた。
指先がピンポイントで弱さを突いてくる。まるで、ヨルがどこを触れば一番効くのか分かっているかのように。今度ばかりは本気で抵抗しそうになっていた。

「っ……は、ぁ……ッ……!」

レオは肩を引き上げ、唇を噛みしめて声を押し殺したが、それでも抑えきれない震えが全身に走り続ける。

「……っく、ああもう……!」

レオは眉をひそめ、目を閉じたままヨルの手首を掴んだ。だがそれは強く振り払うものではなく、むしろ彼女の手を留めるような、曖昧な力加減だった。

「……見せてほしいって言ったら、何でも見せてもらえると思うなよ……」

低く呟くその声はかすかに濡れていて、耐えようとしている意志と、崩れそうな本音が入り混じっていた。

「...可愛いね、レオ」

滅多に見られない姿に満足したヨルは、脱力していく彼の手からそっと自分の腕を引き抜く。そして、乱れた呼吸で赤くした両頬を包み込むと額に口付けた。

「意地悪しすぎちゃった、ごめんね」

反省の色は全くないが、愛情はたっぷりとこもったヨルの言葉。

レオは額に触れたキスの余韻に、ほんの僅かに目を細めた。胸元で優しく添えられた彼女の手が、まるで火照った心臓の鼓動を測っているかのように心地よくて、それがまたくすぐったい。

「……可愛いとか……言うな……」

ぼそりと呟いた声はどこか拗ねていて、でも確かに甘さがあった。顔を覆うヨルの手のひらが気持ち良くて、もう抗う気力もない。

むしろ、弱った自分を包み込むヨルの言葉に、逆らえず甘えてしまいそうな自分が情けないようで、誇らしいようで――。

「...ヨル」

レオはそっと手を伸ばして、ヨルの背中に回す。指先に力を込めて、彼女の身体を自分の方へと引き寄せた。

「……責任取れよ」

彼女の額に、今度はレオからそっと口づけを返した。それは言葉以上に素直で、たった一言の「好き」をすべて含んだような、不器用で真っ直ぐな答えだった。

「...責任?」

その言葉にわかりやすく悪戯な笑みを浮かべるヨル。そっと身体を離すと両手をレオに向かって僅かに広げた。無防備に身体に触れることを受け入れる姿勢。

「私のことも、くすぐりたいってこと?」

レオは視線を逸らしながら、小さく息を吐いた。

「……いや、それは……」

わずかに言葉を詰まらせながらも、ヨルの差し出した腕に目を落とす。
無防備すぎるその姿に、さっきまで自分がされていたことを思い出し、喉の奥で苦く笑った。

「……おまえには効かないだろ?」

ぼそっと呟きながら、レオは片手をそっと伸ばし、ヨルの脇腹に指先を添える。
軽くつつく程度の遠慮がちな動作。それがいかにも「本当に効くのか?」と疑いながらの様子で、どこか試すようだった。

「……俺がやったら、本当に逃げられないぞ」

低く、真剣な声。けれどそこには、今にも笑ってしまいそうな苦味と、甘やかな脅しのような愛情が滲んでいた。

「私も効くのかな...?」

くすぐられた経験のないヨルは自分でも弱いのかどうか分からないというように眉を下げて笑った。だがすぐに何かに気づいたような挑発的な口角の上がり方が僅かに見えた。

「でもどうだろ、きみの手つきはくすぐるって言うには少し...」

そこで言葉を区切るとレオの耳元に寄る。

「...いやらしいから」

レオはその囁きに、まるで背筋を撫でられたように体を強張らせた。すぐに耳が赤くなり、眉間に僅かに皺が寄る。

「……ヨル」

低く名前を呼ぶ声は、警告にも似た響きを持っていたが、その裏にあるのは紛れもなく——理性の限界だ。

「……試してみろって言ったのおまえだろ」

そう言いながら、レオは彼女の手首をそっと掴んだ。強くはない。逃げようと思えばすぐに抜け出せる程度の力だ。
だが、そのまなざしは鋭く、熱を帯びている。

「いいか? くすぐるだけだ」

そう念を押して、少しだけヨルの脇腹に手を滑らせた。様子を見るように、ゆっくりと、柔らかく。
彼女が本当に”効く”のか——それを確かめるという名目のもと、彼女の反応を一つも見逃さぬよう、目を逸らさずにいた。

「...くすぐったくはないかな」

ほんの少しだけ目元が緩んだが笑いが溢れるほどの刺激ではないらしい。ヨルは余裕のある表情で彼を見返していた。

「きみに触れられて、嬉しいだけ」

その言葉に、レオの動きがふと止まった。
手のひらに伝わる彼女の体温と、静かに響いた声が、胸の奥にじわりと染みる。

「……まいったな」

吐き出すようにそう言ってから、レオは彼女の脇腹から手を離し、代わりに腰へと腕を回した。無理やりでも、押し込むでもなく、ただ”彼女を抱きとめる”ように。

「そんなこと言われたら、触る理由が変わってくるだろ」

言葉とは裏腹に、指先にはくすぐる気配はない。感じた体温を確かめるような、そっと撫でるような動きで、ただ、彼女を確かめるように、優しくなぞるだけだった。

目を細めて見つめる彼の表情には、静かで真剣な熱が宿っている。まるで、悪戯ではなく”愛し方”を学び直すように。

「ほら、やっぱり」

彼の手つきが変わったのを感じ取りながら、煽るように微笑んだ。先程耳元で囁いていた言葉が思い出され、レオの手を止める。

「...きみの触れ方」

彼女はそれ以上言わない。
口にされなかったその先を、自分の中で補完してしまうくらいには、彼女の”間”にはいつも意味がある。

「……分かってる」

低く、息を飲むような声だった。
レオは腕の中の彼女を、そっと自分の胸元へと引き寄せた。ふいに鼓動が速くなるのを感じて、彼自身も驚いているようだった。

「……もう、くすぐる気なんて無くなったよ」

声は静かだけれど、どこか必死だった。
優しさに見せかけた執着。けれどそれは、どこまでも真っ直ぐで、彼女の言葉や行動の全てを受け止めてこそ生まれる想いだった。

「……おまえのこと、」

レオの指が、今度はヨルの頬に触れる。
荒っぽくも優しい手のひらが、まるで彼女が逃げてしまわないように、確かめるように撫でる。言葉は少ないまま、想いだけが熱を帯びていく。

「ちゃんと触れていいか」

目を伏せたのは、照れか、羞恥か、それとも少しの逡巡か。

「ヨル。おまえが笑ってると、どうしても……抑えが効かなくなる」

その一言は、悪戯に対する”罰”でも、愛の”告白”でもなく、ただの事実のように淡々としていて。だからこそ、そこに宿る重さが際立つのだった。