───あれから一週間。
同じ屋根の下で過ごす時間は、予想以上に穏やかだった。
ヨルはよく眠り、静かに生活していた。
言葉数は少ないが、レオの行動や生活習慣をひとつずつ観察して覚え、干渉することなく、必要なときにだけ短く返事をする。
まるで、壊れもののように気配を消しながらも、その存在は確かだった。
レオはというと、夜勤と昼勤務を交互に繰り返す合間、彼女の様子を何度も気にしていた。
帰宅して玄関を開けたとき、部屋に明かりが灯っていると、なぜだかほっとする。
何も無いこの部屋に、ひとつ、呼吸が生まれたようだった。
ふと気づくと、テーブルの上に水の入ったコップが置かれていたり、洗い物が片づけられていたりする。
誰に頼まれたわけでもないのに、彼女は確かにこの部屋の「一部」となりつつあった。
ある夜、レオがふと帰宅してリビングに入ると、ヨルが窓際のソファに腰掛けていた。
暗い部屋の中で、月明かりだけを頼りに、静かに夜を眺めているその姿に、レオは一瞬、息を呑んだ。
何かが欠けていて、けれど何かを満たし始めている。そんな不思議な共存が、確かにここにあった。
邪魔をしないように静かに近づくと、ヨルはゆっくりと顔を上げた。
「……レオ、月が綺麗ですね」
ソファの傍ら、ふと投げかけられたその一言に、レオは言葉を詰まらせる。
ヨルの声は静かで、まるでその言葉自体が夜に溶けていくようだった。
窓の外には、澄み切った空に浮かぶ満月。輪郭はくっきりとしていて、やわらかな光が部屋の中にまで染み込んでいた。
その一言に、きっと深い意味はない。彼女はただ、目に映るものを素直に言葉にしただけ。
だが彼の頭にふっと浮かんだのは、昔どこかで読んだ、あの英語訳の逸話──「I love you」を、「月が綺麗ですね」と訳したという話。
面と向かって愛を告げることが憚られた時代、けれど、それでも気持ちを伝えたくて、遠回しに想いを託した文学者の言葉。
「……こんなに綺麗な月は、初めてです」
窓越しに夜空を見上げながら、抑えた声で答える。それだけで、胸の奥が妙に騒がしかった。
彼女にその意味が伝わるわけじゃない。
けれど、静かな部屋の中に落ちたその言葉が、少しだけ夜を甘く染めたような気がして──
気づけば、視線をそっと彼女へと戻していた。
月の光を受けた横顔はどこか柔らかく、海辺で出会った時の“空虚”を思わせる表情とは違っていた。
この感情の名前まではまだ分からない。
それでも、ヨルがここに“いる”ことが、確かに嬉しいと感じる自分がいた。
沈黙のまま交わされた視線。
たったそれだけの時間が、妙に長く、愛おしく思えていた。
───
そうして、いつのまにか当たり前になっていった日常。
玄関の扉を開けた瞬間、ふわりと香るのは洗い立てのリネンの匂いと、どこか懐かしい静けさだった。
「ただいま」
不思議と、今はそれが“当たり前”のように感じられる自分に気づいて、ふっと小さく笑う。
この週間、静かに、でも確かに積み重ねてきた日々が、この部屋に優しい温度を与えてくれていた。
室内は静かだったが、どこか人の気配がする。リビングの奥、微かに音がした方へと視線をやると──ふと、脚立代わりに椅子に立っている細い影が見えた。
「……ヨル?」
呼びかけようとした、その時だった。彼女が振り向きかけて口を開いた、その瞬間──
「……っ」
目に飛び込んできたのは、椅子の上でぐらりと体を傾けたヨルの姿。
思考する間もなく、身体が先に動いていた。鞄を落としたことにも気づかないまま反射的に駆け寄った俺は、彼女の細い身体をしっかりと腕に収めた。転がった椅子の音が部屋に響く。
「大丈夫かっ……!」
息を詰めるようにそう言って、抱えたままの身体に目をやる。抱きとめられたまま、眼を丸くしてすっぽりと収まっているヨル。
「...怪我はないか?」
数秒の沈黙。鼓動が、やけに近くで聞こえる。
目の前のヨルの頬がすぐそこにあって、彼女の香りが微かに鼻をくすぐる。ヨルの瞳が、驚きと混乱を湛えたままこちらを見つめ返していた。その目を見て、ようやく自分がどれほど無茶な動きで飛び込んだかに気づく。
だが、そんなことよりも──
「怪我は……ない、ですか」
思わず外れた敬語を取り繕うように言い直す。威圧感を与えないよう不器用ながらヨルを気にかけ、常に柔らかい敬語を意識していた日々。突然の距離感に彼女を驚かせてしまっただろうか、そんな不安が駆け巡る。
だがその瞬間、ヨルの表情はふっと緩んだ。
声を出して笑うわけでもなく、唇の端がほんのわずかに上がるだけ。でも、それは確かに──初めて見る、ヨルの微笑みだった。
「...敬語じゃないレオの方が、良いですね」
そう静かに言うと、彼女は強く抱え込むレオの腕にそっと自分の手を乗せた。
その小さな手のひらの感触に、思わず息を呑んだ。まるで「もう大丈夫」と言われたようだったから。
しがみつくように抱きとめていた腕から、そっと力を抜いていく。だがその距離までは、まだ戻せなかった。彼女の手の温もりが、まるで胸の奥にまで染み込んでくるようで、離したくなかった。
「……そう、か」
小さく呟く声が、やけにかすれていた。
敬語じゃない方がいい──その一言に、彼女が本当の自分自身を受け入れてくれたような、そんな錯覚すら覚えた。
「……じゃあ、ヨルも」
瞳を見た。真っ直ぐに。
「これからは、」
その全てを口には出さない。そこには互いの距離をゆっくりと近づけようとする変化があった。
