───数日後。
空は雲ひとつない青に染まり、春めいた柔らかな風が街を撫でていた。

レオは早めに警察署での仕事を片づけ、まっすぐ病院へ向かった。
入院中の彼女——ヨルのために買い揃えた服や靴、日用品のいくつかを先に病室へ届けておいたのは昨日のことだ。

今日、ようやく退院の日を迎える。
彼女の居場所として整えた部屋はまだ質素だが、少なくとも“知らない天井”よりは、安心できる空間であってほしいと思っていた。

病室のドアをノックして開けると、白く整えられた空間の中、そこに彼女はいた。

窓から差し込む光に照らされ、ベッドの端で静かに座っていた。
肩を滑る黒髪は控えめに揺れ、こちらに顔を向ける動作すら、どこか慎ましく品がある。

そして何より——彼が選んだ服を、彼女は着てくれていた。
淡いベージュのカーディガンに、柔らかなアイボリーのワンピース。
その姿は、浜辺で月明かりに照らされていたときよりも、病院で静かに眠っていたときよりも、ずっと“人”としての輪郭がはっきりして見えた。

レオはその一瞬、息を飲むような静けさを覚えて、自然と足が止まった。

「……すみません、お待たせしました。退院の準備、できていますか」
ようやく口にした言葉は、想像より少しだけ、優しくなっていたかもしれない。

彼女は何も言わずに頷くと静かに立ち上がった。

「レオさん」

そっと名前を呼んで、彼の元へ歩み寄る。

「来てくれて、ありがとう」

微笑んだり表情の変化は何一つなかったが、どこかその声色は優しく聞こえた。

レオは彼女の歩みに合わせて自然と視線を下ろすと彼女の手元に向いた。
数日入院していたと言うのに荷物は小さな紙袋がひとつだけ。生活の証が、それしかない。
彼が届けた歯ブラシや着替え、ほんの数点。それを大事そうに両手で持っていた。

その姿を見て、言葉にできない感情が胸に広がった。何も持っていないこの人が、今日から俺の家で——俺の生活に入る。
彼女には、警戒や不安といった色は無く、ただ、彼の姿を確認して一歩を踏み出すという“信頼”のようなものが、確かに感じられた。

「……いえ。当然のことです」

その声が、自分でも少し固く響いた気がして、思わず視線を逸らす。
慣れない同居。慣れない距離感。そして、どこか儚さをまとった彼女の存在。
警察官としての責任感だけじゃ説明のつかないものが、確実に胸の中に芽吹いていた。

「じゃあ、行きましょうか。……少し遠いので、車で」

そう言って彼は、病室の扉を開けて先に立つ。

名前も過去もわからない女性を家に迎える。
普通なら、あり得ないことだ。
でも——彼女を施設に預けるなんて、どうしてもできなかった。

ほんのわずかでも、彼女自身が「一緒に」と望んでくれたから。

「荷物は……俺が持ちます。もう手続きも全部済んでますから、一緒に出ましょう」

俺はそっと彼女の小さな荷物を引き取る。
そして数秒だけ、その向こうの光を見つめてから、振り返って微かに笑った。

「……今日から、よろしくお願いします。ヨルさん」

この“生活”を、彼女にとって少しでも穏やかなものにしたかった。
そう、願わずにはいられなかった。

「...名前、」

病室を出ようと足を向けるレオ。そんな彼を呼び止めるように彼女は控えめに口を開いた。

「きみがくれた名前だから...」

進めようとしていたレオの足が、彼女の言葉で静かに床の上で止まった。

「呼んでくれる時、名前だけでいいです」

その声音は小さく、けれど確かに胸に響いた。
振り返った先で、彼女は真っ直ぐに俺を見つめていた。
病室の白い光の中、先ほどまでとは少し違う、ほんのわずかに熱を帯びた目。

「……ヨル」

確かめるように、その名をひとつ呼んだ。
自分が与えた名前を、彼女自身がこうして受け入れてくれたこと。
たったそれだけのことなのに、なぜだろう。胸の奥が少しだけ熱くなる。

「じゃあ……俺のことも、レオとだけ」

少し気恥ずかしさを押し隠すように、短く言った。形式じゃない、距離を詰めるための言葉を。



病院を出て車に乗り込むと始まった、僅かなドライブ。レオはチラリと助手席の彼女を横目に見る。

窓の外に視線を向けたまま、ヨルは一言も発さず、ただ静かに外の世界を見つめていた。
その横顔には、病院で見た無機質さとは違う、ほんの微かな光が宿っている気がした。

季節は春の始め。街路樹の若葉が風に揺れて、その隙間からこぼれる光が車内を柔らかく照らす。
彼女の頬に落ちるその光さえ、どこか神聖なもののように思えてしまった。

「...晴れていて良かったです」

ふと、軽く声をかけてみる。
彼女の目に映るすべてが、新しくて、まるで“初めて見る”ような眼差しに思えたから。その始まりが晴れやかなものであったことへの嬉しさ。

信号で車が止まり、レオはほんの少し、彼女の方に身体を向ける。
ヨルが感じているこの瞬間が、どんな色をしているのか。言葉にしてほしいわけじゃない。ただ、知りたいと思った。

彼の視線が向けられているのに気づくと、自然に眼を合わせる。暫く言葉はなかったが、それは居心地の悪い沈黙では無かった。

「...いい日ですね」

ほんの僅かに緩められた表情。もう一度外へと視線を向けるとヨルは言葉をこぼした。

その言葉に、レオの口元がかすかに緩む。

「そうですね」

レオは短く応じながら、その横顔から視線を外せずにいた。
車内に流れるのは、遠くのFMラジオの音と、窓越しに差し込む風の気配だけ。けれどその空間には、不思議なほどのあたたかさが満ちている。

流れていく景色。商店街の飾りつけ、交差点で信号を待つ親子、風に舞う葉。
当たり前の日常の断片全てがが、彼女の瞳の奥には一つずつ、丁寧に映っているのだろうか。

信号が青に変わると、静かにアクセルを踏む。
車が再び動き出し、住宅街へと差し掛かったころ、レオは口を開いた。

「……もうすぐ着きます」

言葉の端々に混ざるのは、不安と、ほんの少しの緊張。
人ひとりを預かることの重みも、彼女が“空っぽ”であることも、ちゃんと分かっている。

マンションの駐車場に車を停め、ヨルを先に降ろしてエントランスへと導く。
オートロックのドアが静かに開いた瞬間、彼女は小さく首を傾げた。
初めて触れるセキュリティや機械的な操作に、戸惑いこそあれ、怖がるような様子はない。ただ、すべてを目で見て、確かめて、まるで“今”という現実をなぞっているように見えた。

部屋は5階の角部屋。ひとり暮らし用にしては少し広めだが、生活感は薄い。
長年の独身生活に慣れた男の部屋には必要最低限の家具しかなく、装飾も味気ない。
けれどドアを開けて迎え入れたとき、そこに彼女が立った瞬間だけは、不思議と「家」という言葉がしっくりきた。

「……ようこそ。狭いけど、遠慮せずに使ってください」

玄関に並んだばかりの新品のスリッパと、届いたばかりの柔らかな香りのするバスタオル。
リビングの隅には、彼女のためにと新しく設えた簡易の収納棚と、シンプルなベッド。
思えば、誰かのために部屋を整えたのは初めてだった。

ヨルは部屋の中をひとつずつ、目で追う。
何も言わないまま、けれど確かに何かを受け取ってくれているようだった。

「ありがとうございます、...レオ」

それは、これから始まる彼女と過ごす日々が丁寧に迎えられた瞬間だった。