全てはあの日から始まった。
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夜空に星が瞬き、潮の香りを運ぶ夜風が車内をすり抜けていく。深夜0時を過ぎた国道沿い。
深夜の公務を終えた帰り道にふと目に留まった「海岸入口」の標識。普段なら通り過ぎてしまうような道に今日は何故か足を向けていた。
潮風に揺れる草を照らすヘッドライトを頼りに、舗装の途切れた道を少し進むと、視界が一気に開ける。
目の前に広がるのは、黒く静まり返った海。
街灯も届かない砂浜に、波の音だけが規則正しく響いていた。
エンジンを切り車を降りると、夜の海風が頬を撫でる。深く呼吸しようとした瞬間――視界の隅に、不自然な影が映った。
暗がりの中に目を凝らす。波打ち際、打ち寄せる水に触れるか触れないかという距離。
それは人の形をしていた。
「……っ」
瞬時に緊張が走り、思考より先に体が動く。
警察の制服を着たまま。一歩、そしてまた一歩。靴が砂に沈むたび、胸の鼓動が速くなる。
灯りもなく、頼りは月の光と自分の勘だけだ。
不穏な想像が脳裏をよぎる。
真っ先に浮かぶのは事故か、自殺か。だが、近づくにつれてそれはただ“眠っているだけ”のように見えた。
暗がりの中に見えてきたのは、華奢な体。
そこにいたのは一人の女性だった。
長い黒髪が砂に濡れ、肌は夜気の中で白く、冷たそうに見える。その身体はまるで人形のように動かず、波音に溶けて、息すら感じ取れないほど静かだった。
「、大丈夫ですか」
屈み込むと同時に肩に手を添え、優しく叩く。
だが返事はない。最悪の事態がよぎり、鼓動が速まる。
すぐに手を伸ばし、彼女の首筋に指を添えた――脈はある。弱いが、一定だ。呼吸も、かすかに上下している。
「……良かった。死んではいない……」
安堵の息をつく。
まだ少し肌寒い季節だというのに、着ているのは薄手の黒いワンピースだけ。持ち物らしきものはどこにもない。バッグも、スマートフォンも、財布も何も。腕や脚にも頭や首にも、目立った怪我や出血はない。だが、それが逆に不自然だった。
「……なんでこんなところに……」
問いかけたその声は、彼自身にも届かないような、微かな音だった。
夜の静寂に、波が割って入る。
彼女の顔を見つめながら、レオは眉を寄せた。まるで深く眠っているようで、だがその寝顔はどこか現実味を欠いていた。
この時間、この場所、そしてこの静けさの中で倒れている女性――あまりに異質。
背筋に、寒気とは違う何かが走る。
「……聞こえますか? もしも意識が戻っているなら、返事をしてください」
再度呼びかけ、そっと彼女の肩を揺らす。
彼女の体温は、確かにあった。けれど、まるで夢の中に閉じ込められたかのように反応はない。このまま意識が戻らなければ救急車を呼ぶべきか、と判断を巡らせたその時。
指先が、わずかに動いた。
肩の下、細い指が砂をかくように小さく動いたのだ。
時間が止まったような夜の海。
レオの視線の先で、濡れたまつげが――ほんの、わずかに震えた。そして、まるで長い夢の中から引き戻されるように、ゆっくりと、その瞳が開かれていく――。
「……意識が……」
レオは自然と息を呑んでいた。
それは“目を覚ました”というより、“還ってきた”という表現のほうが近かった。長い時間、深い水底に沈められていた魂が、ようやくこの現実に繋がれたような――そんな気配。
開かれたのは、まるで夜空を映したかのような美しくも底知れぬ黒い瞳。だが焦点はまだ定まらず、夜の帳の中をさまようように、空虚に揺れている。
「……大丈夫ですか?」
レオはできるだけ穏やかな声を心がけ、しゃがんだままゆっくりと言葉をかけた。
近づきすぎないように、けれど、彼女が不安にならない距離で。
すぐに答えが返るとは思っていない。だが、まぶたの開き方、指先のかすかな動き、唇の震え――すべてが彼女が「生きている」と物語っていた。
「私は警察の者です」
不審な者ではないと安心させるように伝える彼の声は、冷たい海風と共に吹き抜けていく。それが濡れた砂と共に彼女の肌を冷やしているのがわかる。
そのときだった。
彼女の唇が、かすかに開く。
「...ここは...」
ハープを弾いたような凛とした声。
「...どこ」
そしてゆっくりと、呼びかけたレオへと視線が向けられる。
それはまるで初めて世界を見たとでも言うような、そう想像させる瞳だった。
レオは、一瞬言葉を失った。
その瞳に宿るもの――怯えも、困惑も、敵意すらない。ただ、真っ白だった。
生まれたばかりのように純粋で、空っぽで、だからこそ目を逸らせなかった。
「……ここは、南町の海岸。夜の、人気のない浜辺です」
ゆっくりと、言葉を選びながら答える。
警戒させないように、でも事実は丁寧に。
こうして彼女が目を覚ました今、ほんの些細な刺激すら、負担になりかねなかった。
「怪我は……ないように見えましたが、痛い所はありませんか?」
見えない所に何か異常がある可能性もあるため確認を怠らない。
彼女がどこから来たのか、なぜこんな場所に倒れていたのかは、何一つわからない。
けれど、今の彼女は――まるで壊れ物のように繊細で、手荒な扱いは絶対にしてはならない。
そう本能で感じた。
夜の海は、波音だけが静かに響いている。
「怪我...」
そう呟くとゆっくりと上体を起こす。そしてまるで自分のもので無いように、全身に目を向けて言った。
「...無さそうです」
レオは、その仕草をひとつひとつ見逃すまいと静かに見守っていた。まるで、壊れかけた人形が自分を確かめるような慎重さ。
その動作に痛みや苦しみは見られなかったが、何かが根本的に欠けている――そんな印象を拭えなかった。
「……それは、良かったです」
少しだけ安堵して、ひと息つく。
だが、次に向けるべき言葉を慎重に選ぶ必要があった。
彼女の目は焦点を結んでいながらも、どこか空虚だった。どこかに向かう意思も、帰るべき場所も見えない。
「お名前を……お伺いしてもよろしいですか?」
波の音にかき消されぬよう、少し声を張って問いかける。
「名前、」
彼女は少し考えるように俯いたが、その答えはどうやら見つからないようだった。
レオはその反応を見て、静かに息を吐いた。
やはり――予感が、確信へと変わる。
「……思い出せませんか」
責めるような言い方にはならないよう、声のトーンを落として言葉を継ぐ。
彼女が無理に答えを探そうとしていること、その表情の陰に迷いや戸惑いがあることを見て取っていた。
レオは少し距離を詰めると、自身のジャケットを脱ぎ、冷たい風に晒される彼女の肩にそっとかけた。浜辺にしゃがみ込んだまま彼女と視線の高さを合わせる。
優しいというよりは、どこまでも誠実な眼差しだった。
「今はそれで大丈夫です」
風が吹いて、彼女の髪をふわりと揺らす。
その一瞬、レオの眼差しがほんのわずかだけ柔らいだ。
「ゆっくりで構いません」
彼の言葉に反応して視線を合わせる。
そして、もう一度自分の身体を確認するように目を伏せた。
そしてしばらく間が空いた後、彼女はゆっくりと口を開く。
「名前...」
それは先ほど向けられた問いの繰り返しではなく、彼女からの初めての意思を持った言葉。
「きみの、名前は、?」
レオはその問いに、微かに目を見開いた。
自分の名前を問われるとは思っていなかった――それだけに、その小さな一言がどこか胸に残る。
風の音だけが聞こえる静かな夜の海辺。
言葉を交わしたのはまだほんのわずかだが、彼女の問いにはどこか真っ直ぐなものが感じられた。
「……レオ、といいます」
少しだけ姿勢を崩し、彼女にとって威圧的にならないように肩の力を抜く。
「あなたの身の安全を保護させてくれませんか」
柔らかい言葉の中には、不器用に彼女を気遣う確かな想いが含まれていた。
名も知らぬまま、見知らぬ海辺で出会った女性――だがレオの視線はまるで、彼女という存在を深く見つめるようだった。
彼の名前を受け取ると静かに瞬きをする。
「...レオ」
何の感情も乗っていない声だが、確かめるようにその名を繰り返す。
「私には、何もありません」
思い出せない、ではなく。まるで始めから無かったかのような返答。空っぽの瞳で見返す彼女の姿は今にも消えてしまいそうだった。
レオはその言葉に、ふっと息を吸い込んだ。
「何もありません」――その声には記憶を無くした者の戸惑いや不安さえも感じられなかった。ただ、そこにあるのは“虚無”だ。
「……そうですか」
そっと応える声には、彼女の言葉の奥にあるものを、どうにかして掬い取ろうとする静かな誠実さが滲んでいた。
彼女が見せたあの、名前を呼ぶときの微かな反応。無表情の中にほんのわずかに動いた瞳。そのすべてが、レオの目には確かに映っていた。
「寒くは、ないですか」
彼女が羽織るものも持たず、砂浜に横たわっていた事実を思い出しながら、車へと視線を向ける。
「車の中なら暖かいです。水も、毛布もある。少しだけでも落ち着ける場所に……移動しませんか」
彼女の目を見つめたまま、そっと手を差し出す。
その手は、ただの警察官としての行為ではない。空っぽだと言った彼女に、何かを取り戻させたい――そう願うひとりの人間としての、まっすぐな想いがあった。
差し出された手に一瞥。
温かい場所に行くため、というより自分に向けられたものへの正しい返答のため。彼女は何も言わずにそっとレオの手を取った。
レオの指先に、ひどく冷たく軽い感触が触れる。それは手のひらに乗せた風のように儚くて――それでいて、はっきりと確かな意思を伴っていた。
「……ありがとうございます」
静かにそう呟くと、彼は彼女の手を握ったまま、砂に塗れたその場所からゆっくりと立ち上がる。頼るというよりも委ねるように歩く彼女の足取りに合わせて、一歩ずつ海辺を離れていく。
砂浜の脇に停められた車の助手席のドアを開け、彼女が頭をぶつけぬよう手を添えながら座らせると、毛布をそっと膝に掛けた。
レオは運転席に乗り込むと静かにドアを閉め、キーを回す。エンジンが低く唸りを上げ、控えめな灯りが二人の間に柔らかく差す。
室内灯を灯すと同時に、彼女の白い頬が柔らかく照らされる。その横顔はやはり無表情で、けれどどこか、迷子のように見えた。
「良ければ、」
そう言うと、ドリンクホルダーに用意してあった水のボトルを控えめに手渡す。
車内は静かだった。
夜の海を背に、時折遠くで波が崩れる音が微かに届く中、名前も、過去も、何も持たない女性は星空を見上げる。
「...レオ、さん」
自分以外の存在を確かめるように呼びかける声。どうしようもなくただ静かに。
レオはその声に応じるように、彼女の方へとゆっくりと顔を向けた。
彼女の瞳は、まだどこか虚ろで、何かを探しているように見えた。まるで深い霧の中で、光の在処を確かめようとするように。
「……はい」
短く、しかし誠実に返したその声は、彼女の小さな呼びかけを無下にしたくなかったからだ。
車内の静けさに、その名前を呼ばれた余韻だけがほんの少しだけ、残る。
レオはしばらく彼女を見つめたあと、ゆっくりと続ける。
「もしよければ……仮の名前でも構いません。呼ばれたい名前、もしくは、何となくしっくりくる言葉、ありませんか?」
その提案に押しつけがましさはなかった。
ただ彼女が“誰か”として、今ここに存在していることを証明する――そんな小さな灯火を手渡すような言葉だった。
彼の提案に彼女はゆっくりと眼を伏せる。
少し考えたあと、星空を見上げて口を開く。
「"夜"」
レオの眉がわずかに動く。
それは警戒でも驚きでもなく、静かに彼女の選んだその一文字を受け止めようとする誠実な仕草だった。
「……夜、ですか」
彼はその言葉を繰り返すように小さく口にする。
海と空が溶け合った夜の景色。何かを隠すようでいて、どこまでも深く静かで、美しい。
その名は、まさに彼女の存在と重なっていた。
「……よく、似合っています」
そう言ってから、彼はもう一度その瞳を見つめる。夜と名乗った彼女が、名前を得て初めてこの世界に輪郭を持ったように感じられた。
「では……改めて。よろしくお願いします、“ヨル”さん」
彼の声には、ごく自然にその名前が馴染んでいた。
ふと口から出たただの言葉が意味を持って名前として与えられる。その瞬間、僅かに彼女の瞳が輝いたように見えた。
「...ヨル」
レオの名を教えてもらった時と同じように静かに繰り返す。そしてゆっくりと瞬きをしたかと思えば、次には瞼は重たく落ち、彼女はまた糸が切れたように意識を手放していた。
レオは咄嗟に彼女──ヨルの身体を支える。細い肩、冷たい指先、そして何も語らない寝顔。
「……ヨルさん」
その名をもう一度、今度は静かに胸の内で呼ぶ。
ただの“倒れていた女性”ではない。
名前を持った瞬間から、彼女は誰かになった。世界に居場所を得のだ。
